愛国心 最近の論壇から 2

愛国心 そして私見

愛国心だけが何故か突出している。それは矢張り下心というものを考えてしまう。
自分を愛し、家族を愛し、地域を愛し、町を愛し、郷土(町と同じ?)を愛し、国を愛し、同じ文化圏の東洋そしてアジアを愛し、世界を愛しそして地球を愛する。愛国心はその一つに過ぎない。
家族を愛することを、わざわざ国に教育される必要など全くない。国を愛するということも同じではないのか。国を愛することだけを突出して、教育の対象にするという時、その国は特別な存在になってしまう。
戦争中、国体という言葉があった。国民体育大会ではない。国の主体というより主体たる国という意味である。個人はその主体に奉仕するものになってしまった。そうした考えが多くの人を殺し多くの人が殺された戦争に結びついた。
東西陣営が核軍拡競争に走った80年代、アメリカは一機の飛行機を、24時間いつでも飛びたてられるようにスタンバイさせていたという。核攻撃を受けた時、大統領がそれに飛び乗って空飛ぶ執務室になるというのである。そこには、国のトップが生き残れば国は生き残るという考えがある。人権を重んじ、自由を尊ぶというアメリカの本音を垣間見たような気がした。トップを支える民衆がいなくて、トップはトップたり得ない。民衆こそ生き残れば国は生き残る。
個人を超越して、それを支配する国という存在はあってはならないと思う。個人は国の一部であり、同時に国は個人の一部である。そこに支配被支配の関係は成り立たない。
国家が教育によって国を愛することを強制するとき、相対的であるべき国が絶対化する道をたどる。
それは既に歴史で我々が経験してきたことである。国を愛することが、地球を愛することにつながっていく。そうした国を相対化することは教育で強制は出来ないししてはならない。
「国が祭ってくれなくて、誰が喜んで国の為に死にますか。」これは靖国国家護持問題が起きた時の、奥野元法務大臣の言葉である。国の為に死ぬことを美しいとされる、そんな時代をもう一度迎えることは断じて許せない。

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