アジアの人権問題番外編再びタイビルマ国境再訪
アジアの人権問題番外編再び
ビルマ・タイ国境再訪
3月15日から25日まで、私が代表を務める、STAなみだの分かちあいアジアのスタデイツアーでタイ国境の町メイ・ホー・ソンを訪れた。
チェンマイからミニバス(ワゴン車)で6時間、毎年この時期は焼畑の煙で、町がかすんでいる。煙害で、飛行機も飛ばないことがある。日中は36度を越える気候だが、午前中は太陽が煙にさえぎられて涼しい。
メイ・ホー・ソンでは、友人のビルマ少数民族パオの民主化組織PPLO(パオ民族解放機構)議長オッカーのオフィスにお世話になる。
理解しやすい為に、ここでビルマ問題のバックグラウンドを簡単に解説しておく。
ビルマは多民族国家である。ビルマ人の友人は、70%のビルマ人30%の少数民族と言い、少数民族の友人はビルマ人50%少数民族50%だという。
少数民族は仕分け方で50から100あるといわれる。その中の13の民族が民主化を求めてNDF(民族民主戦線)という連合体を作った。カレン・カレニ・シャン・モン・パオ・ワ等それに加盟する13の民族が少数民族の主だったものと思っていい。
1947年ビルマはイギリスから独立を果たすが、1961年の軍事クーデター以来今に至るまで軍事独裁政権が続いている。
1988年学生やお坊さんそして市民の民主化を求めるデモが、全土に広がった。軍事政権はそれを銃弾で押さえこんだ。民主化を求める学生やお坊さんの多くがタイ国境地帯に逃れた。そこで、独立以来民主化を求めて闘っていた少数民族と出会い、反軍政を掲げて大同団結した。
国際世論に抗えず、軍事政権は1990年、5人以上の集会を禁じ、主だった野党の候補者を拘束し、野党の選挙運動を禁じるという、手と足を縛り、目・口・耳をふさぐという状態で総選挙を行った。
結果はアウン・サン・スー・チー率いる野党のNLD(国民民主連合)が80%以上の支持を集めて圧勝した。それにも拘らず、軍事政権は今でも政権をNLDに移譲していない。
以上駆け足でたどった、ビルマの最近の状況である。
パオは少数民族13の内の一つだが、中でも少数派である。だがPPLOの議長のオッカーは、少数民族の連合体NDFの外交担当を勤める。
寒いアメリカで喘息が悪化したというオッカーを、チェンマイの病院に見舞った。彼は翌日退院して、中国に向かうといっていた。ビルマの軍事政権と闘う彼が、軍事政権を支援する中国に何故受け容れられるのか不思議だった。彼が言うには、中国には学生を中心に、人権問題を考えるNGOがたくさん出来ているのだそうだ。
日本にいると、中国で人権活動家が逮捕されたニュースしか伝わってこない。それは氷山の一角で、実は海中に潜った巨大な氷塊ほどの活動家がいるのだ。
チベットの騒乱もそうだが、何かもっと大きなことが起こる予感みたいなものを感じた。
メイ・ホー・ソンではNO.2の書記長ショウ・ルーが迎えてくれた。私が来ると聞きつけて駆けつけた、元パオの兵士ヤン・オンと彼とともに、その日のうちに国境に接する難民村、マカホエソン村に向かうことになった。
ヤン・オンはビルマ軍に捕らえられ7年間監獄にいた経験を持つ。彼から監獄での人権を踏みにじる、屈辱的な体験を聞いたが、途中涙で最後まで話せなかった。
親族がお金を積んで、ポーターとして働くことを条件に外に出られた。ポーターは裸足で裸でジャングルの中を銃弾など重い荷物を担いで運ぶのである。
ある日、先頭を歩いていた仲間が、目の前で地雷を踏んで亡くなった。ポーターは地雷よけでもあったのである。いつかは自分も殺されると思い、仲間と相談して銃弾の雨の中を逃亡した。ジャングルを何日も歩いて漸くタイ側に逃れた。
初めて会ったとき彼に笑顔はなかった。1年後彼の表情に笑顔を見た時、心からほっとしたことを覚えている。
動物保護団体にはとても聞かせられないが、彼は、朝獲ってきたというトラ(多分山猫の類であろう)の肉をぶら下げてきた。
メイ・ホー・ソンからマカホエソン村までは、道が舗装された今は一時間で行ける。舗装される以前は、さしも優秀な日本車も、ジャングルの坂道を登ることが出来ず、所々車を降りて後押しをした。乾季には砂埃にまみれて、全身まるで黄な粉もちのようになって五時間はかかった。
雨季には道はここかしこにクレーターが出来て、四駆にチェーンを巻いても、車は横倒しになって上った。帰ってくると全身まるでおはぎ状態であった。
マカホエソン村は、茶色の不毛の斜面に、張り付くように粗末な竹製の高床式の家が建てられている。ここの村人は、十二年前に国境のビルマ側から、ビルマ軍の攻撃を避けて逃れて住み着いた。
ここの村人と初めて出会ったのは、1991年3月人権を考える国際会議の視察団の一員として、タイ側から国境を越えて、ビルマ側カレン州の山頂にある、難民キャンプを訪れた時であった。88年の民主化運動の弾圧を逃れてきた学生の軍事キャンプと、パオの軍事キャンプに守られて、互いに助け合って暮らしていた。
近くにジャングル小学校という看板を掲げて、迷彩服の学生達がパオやカレンの子供達を教えていた。皮肉にも学生達が逃げてきて、難民の子供達は初めて教育の機会を得られたのである。
村人は、ここに来るまでビルマ軍に追われて、年に七回も村を移動した。
村長は「ここはビルマ軍にも見つけにくい場所で、とりあえず安全は確保できた。」と言っていた。その年の8月雨季の真っ只中スタデイツアーで訪れた時、まだキャンプは健在であった。雨の降りしきる中、新兵が軍事訓練を受けていた。学校は難民村の近くに移動して、かわいいお坊さん達が一緒に学んでいた。
しかし一年後そこもビルマ軍に攻略されてしまった。その後五年間、村人はジャングル地帯をさまよったのである。
十二年前村人は国境を越えて、タイのボーダーのこの地に落ち着いた。漸く攻撃にさらされない、安全な所に落ち着いたのである。そして四年前には、何故だか知らないが村人全員にタイの市民権が与えられた。
村人の多くは森林で働く。その周辺には国王の御用林がある。
耕作地はあるが、歩いて30分国境線の近くで、耕作するにも危険が伴う。
森林の仕事はここの村人にとっては、安全が保障された上収入になるのである。
タイの人々は、森林でのきつい仕事にはつきたがらない。難民は、願ってもない労働力の供給源なのである。それが市民権の理由ではないかと思う。
市民権をもらっても少数民族はブルーカードという身分証を持たされ、移動を制限される。
それにも拘らず、最近ここの若者達は高収入を求めて、チェンマイやバンコクに出稼ぎに行くようになった。粗末な竹製の高床式の暗い部屋に、真新しいテレビやDVDが場違いな美しい映像を映し出していた。
フィリッピンやバンコクのスラムや、インドの貧しい村でもお金が入ると何を差し置いても先ず買うものはテレビなのである。
毎年村長の家にお世話になるが、私が行くと何故か直ぐ酒が出る。トラ?の肉と地酒の強い焼酎で今年も酒盛りが始まった。
暗くなって村の少女達が踊りを披露してくれるという。案内された副村長の家の前の庭では、少女達が踊りの練習に余念がなかった。私達が行くと、皆伝統的な衣装に着替えてくると家に散って行った。待っている間、副村長は私達を部屋に通して、DVDを見せてくれた。彼らの故郷のシャン州のタウンジーの映像だった。森の都と言われるように、それは緑に囲まれた美しい町であった。
少数民族はカレン州・モン州・カチン州などそれぞれテリトリーを持っていた。しかし少数民族の中でもパオ・ラフー・パラウン・ワなど規模の小さな民族は、独自の州を持ちえず、シャン州の一部に帰属していた。そのシャン州は、民主化を求める少数民族の運動の見本市のような所である。
シャンの民主化組織のSSA(シャン州軍)はビルマ軍事政権と停戦交渉を結んだ部隊と、それにあくまで反対し民主化を求める部隊に分裂してしまった。そこに、麻薬の権益を一手に握る元中国の国民党の残党KMT のクンサーが参戦した。クンサーは私兵一万を擁する、巨大な力を持っていた。ビルマ軍を交えシャン州は三つ巴四つ巴の入り乱れた戦場になった。パオも独自の軍事組織を持っているし、ワに至っては、小粒だが戦闘では一歩も後には引かぬという過激な民族である。
そんな状況の中で、パオの村人達はとばっちりを受けたといえなくもない。
シャン州では多数のビルマ軍が展開した影響で、当然シャンの民衆も過酷な被害に遭っている。ビルマ軍はシャン州で、レイプを戦略として実行している。SWAN(シャン女性行動ネットワーク)のメンバーから「Ricense to Rape」(レイプの免許証)という衝撃的な報告集を預かった。それについてはまた機会を改めて書く。
パオ難民の村人が、タイの国境のこの不毛の地に住みついた状況は大体分かっていただけたと思う。
少女達は、パオの伝統的な黒いシンプルな衣装に着替えてきた。頭にターバンのように巻いた色とりどりのタオルが、パオ独特なのだ。
踊りは単純なステップで、手で表現をするこれまたシンプルなものであった。彼女達は、おそらくこの村か或いはビルマのジャングルで生まれて、タウンジーのことは全く知らないと思う。もの悲しいメロデイ―で恥ずかしそうに踊る彼女達を見ていると、村人の緑の街への望郷の念が、痛いほど伝わってきた。対峙する山のすそでは、漆黒の闇の中、焼畑の紅蓮の炎が美しかった。
踊りを囲む輪の中から、小柄で小太りの男が近かずいてきた。「私を覚えているか?」暫く顔を眺めていて、漸く思い出した。1991年初めて訪れた、ビルマのジャングルのパオの難民キャンプを守っていた、パオ軍の大尉であった。あの時は軍服で、腰に拳銃を携えて、厳しい顔つきで部下に命令を下していた。今の穏やかな笑顔からはあの頃の彼は想像しがたかった。
「もう武器は捨てたよ。」という彼と硬い握手を交わした。ビルマ国軍の圧倒的な武力を前に、カレン・カレニ・ワ・アラカンを除く多くの少数民族が武力闘争から政治闘争に大きく舵を切った。国の資源を切り売りして、中国などから武器を調達する国軍との軍事力の差は、歴然としていた。また、先進国のNGOが支援の条件として、非暴力を求めるという事情もあった。
少数民族の若者達は、さらに進んで運動を環境問題にシフトしつつある。環境問題は、民族も国境も越えて、同じ地平で経験を共有できる。それに平和問題を扱うNGOだけではなく、環境問題を扱うNGOの支援も得ることが出来る。国を離れて他国で活動せざるを得ない彼らにとって、活動は偏に支援に頼るしかないのである。
オッカーも一時はタイ国籍をとって、農民として暮らす等と言っていた。しかしパオ民族のことを考えれば、どんな形であれ、民主化運動を続けなければならならないと思い直したようである。またNDFの外交担当で培った世界の人脈を考えれば、他に彼に代わるべき人材は見当たらない。
踊りが終わって、村長の家に戻ると、大尉を先頭に村人がぞろぞろついて来た。
どうやら珍客が来たので、夜を通して話し合おう(飲み明かそう)という魂胆のようだ。
若者がいると民族楽器などを持ち出して、お祭り騒ぎになるのだが、今回は熟年ばかりなのでそれはないようである。村長の家は、村人の集会所もかねているのである。
旅の疲れで先に寝込んでしまった我々にお構いなく、明け方まで話し声が続いた。
村について早々、ヤンオンが村を案内してくれた。数分歩くと舗装路は途切れていた。目の前にそびえる山をさして、「あそこが91年あなたが訪れた所です。今はビルマ軍の前線基地です。」91年8月車を降りて、雨季のジャングルを滑ったり転んだりしながら上ったことを思い出した。
翌日マカホエソンを出て帰る途中、ワの村ラクタイを訪れる計画だった。ラクタイは戦闘的なビルマ少数民族ワの集落だが、現在はタイ軍のコントロール下にある。中国式の家が立ち並び、中華レストランと高山茶を目当てにタイの観光客などが訪れる。
毎回、亡くなったワのリーダーが、奥さんのために建てたレストランで昼食を取る。その美しい奥さんの入れてくれる高山茶が、飛び切り美味しい。
今回は残念ながらそこには寄らず、ショウ・ルーはワのリーダーの家へ案内してくれた。リーダーは新しく出来たキャンプに行っていて留守で、若いイケメンの息子が応対に出てくれた。伝統的なカレンの衣装を着ていたので、「あなたはカレンなのか?」と聞いたら彼は「いいえ、シャンです。」と答えた。父親はワだが母親はシャンなのでシャンなのだそうだ。ビルマの少数民族が、母系を引くということを初めて知った。若者はルマンと名乗った。
そのキャンプはタイ軍の監視所があって、許可を取らないと入れない。かなり難しいが、決して入れないわけではない。ショウ・ルーは朝から酒びたりで、思わせぶりなことを言って、どうもはっきりしない。挙句の果てに、「キャンプに入ったら何が起こるか保障できない。もし何かあったら案内した人に迷惑をかける。」まるでマッチポンプである。私達をここまで案内しておきながら、門前で帰れというのである。
「私たちは日本からドライブに来たのではない。現場に立って人々と交流したいのだ。ルマンに案内してもらうように既に頼んだ。」「よーし分かった。あなた方で話がついているのなら私はもう口をさしはさまない。私は何度も行ったから。ここで待つ。」何のことはない、彼はただ腰を落ち着けて飲みたいだけなのであった。
ワの中国部落を横目に、車は直ぐ未舗装路に入り、タイ軍の検問所に出た。ルマンがタイ軍の兵士と二言三言言葉を交わすと、直ぐOKが出た。「彼は友達なので問題はありません。」
気が抜けるほどあっけなくキャンプに入ることが出来た。
地形が複雑に入り組んでいて、キャンプ内はビルマ領なのだ。
山の斜面を切り開いて、竹製の高床式の家がそこここで建設途上であった。今まで幾多のキャンプを訪れて、私には見慣れた光景であった。ワとパオそしてシャンの兵士達30家族が暮らしている。年老いた兵や傷病兵などの住む後方基地として、人口はまだまだ増えるという。山からの湧き水を細いビニール官で導入しているが、人口が増えるととても間に合わない。
キャンプの管理をするルマンの父親が、掘っ立て小屋のオフィスに挨拶に現れた。母親も重要なスタッフとして働いている。日本から来たと自己紹介すると、現実をしっかりと見て日本の皆さんに伝えてくださいと頼まれた。
キャンプを奥に上がっていくと正面に山が切り立っている。「あそこにワの基地があります。兵士は毎日あそこまで水を運ぶのです。」私はちょっとした上りなのにもうはーは-息が切れている。「後ろを見てください。あの山がビルマ軍の前線基地です。」振り返ってみると、山の手前にタイの国旗が見える。「あれはタイ軍の基地です。」少数民族とビルマ軍の間にタイ軍が割って入っているという構図である。「ここの坂を登りきってしまうと状況が良く見えます。」
坂の上には狭い平地があって、監視所とミーテイングルーム(作戦会議室?)が建っていた。周辺には塹壕が掘ってあり、少しはなれたがけにはトーチカがあった。「3ヶ月前にここで戦闘がありました。一人なくなり数人が負傷しました。」30人なくなった、50人亡くなったというイラクの報道の前には、それはニュースのかけらにもならない。しかし現場に立ってみると、名もない一人の横死という現実が重くのしかかってくる。
夏の日差しが照りつけ、風の音が聞き分けられるほど静かであった。銃弾の音と人の死など想像できないほど平和な時間であった。細い道から若い夫婦が現れた。農作業に行っていたようだ。こんな危険な所でも農業が営まれているのだ。日本の休耕田という言葉が頭をよぎった。
ルマンは、ミーテイングルームに掛かっていたワの軍服を、私達に誇らしげに着て見せた。
オフィスの方に下って行くと、奥にお寺が立っていた。どこのキャンプもそうであるが、村人が何を差し置いても先ず建てるのは、お寺や教会なのである。
以前軍事キャンプの学生リーダーにも、お寺の建設の支援を頼まれた。戦闘に出て何時生命を落とすかもしれない。祈る場所が要るのだという。
先ず生命を落とすかもしれないという前提の下に、生活を組み立てていくという現実。実はそれが真実かもしれないが、温泉のような現実の中で生きるわれわれ日本人にとっては、それは想像さえできない世界だと思う。
キャンプを一周してきて、ルマンの父親にインタビューをした。
このキャンプをまとめていく上で難しいのは、ワのグループが二つに割れていることである。ビルマ軍に投降したクンサーの後、麻薬の権益を握ったワのグループと、ひたすら民主化を求め、少数民族の連合体NDFに参加するグループである。
このキャンプでは、ビルマ軍という共通の敵を目の前にして、パオとシャンを含め今のところ共闘は成り立っている。ここを突破口として、ワ民族の統一をめざしている。それなくして、ビルマの民主化等は夢のまた夢である。
このキャンプは欧米のNGOの支援で成り立っている。日本の支援はまだない。(チェンマイで、少数民族の若者には、日本はビルマ軍事政権を支援していると皮肉られてしまった。)
このキャンプには教育施設が全くない。それが一番の問題だ。日本の皆さんにこのことは是非伝えて欲しい。まとめるとインタビューは大体そんな話であった。
日本の支援は、国益を先ず優先し目立つ所にしか届かないように思う。むしろ支援が必要なのは、ここのように目立たない所なのではないだろうか。それに国益を考えた支援などは、本当の支援とは言えないのではないか。支援はされる側の視点でされるべきであり、する側の損得でされるべきではない。
小さな小さなNGOなみだの分かちあいアジアの代表としては、無力感を感じながらこのキャンプを後にしたのであった。
ビルマ問題は、昨年9月お坊さんの祈りの行進(デモ行進)が銃で弾圧され、日本のジャーナリスト長井さんが殺された。そのことで日本人の関心を呼んだ。
しかし半年も経つと、中国の餃子事件、そしてチベット問題と次々起こる事件にかき消されて、ビルマはすっかり忘れ去られてしまった。日本はつくずく情報の消費期限の早い国だと思う。
今回、無抵抗のお坊さんや市民に銃を向けるビルマ軍事政権の実態が、はしなくも明らかになった。あの映像が語る現実は、何もラングーンに限ったものではない。少数民族の暮らすタイ国境地帯では、日常的な出来事なのである。ただそれが伝えられないだけのことである。
私達小さなNGOの使命は、アジアの片隅でひそかに生きる力弱き人々の、なみだと怒りを伝えることだと思う。
日本は今までビルマ軍事政権の延命に多大な貢献をしてきた。そのことに私たちは責任を感じなければならない。無関心は、暴力を容認するという意味で、加担をも意味する。
先ずは関心を持っていただけると、ありがたいと思います。このレポートがその一助になることを願って止みません。
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