メディア掲載記事
新聞などに掲載された、りゅう・チャクマ(S.T.A.代表)の記事を掲載しています。みなさんのコメントをお待ちしています。
アジアの人権問題番外編再びタイビルマ国境再訪
アジアの人権問題番外編再び
ビルマ・タイ国境再訪
3月15日から25日まで、私が代表を務める、STAなみだの分かちあいアジアのスタデイツアーでタイ国境の町メイ・ホー・ソンを訪れた。
チェンマイからミニバス(ワゴン車)で6時間、毎年この時期は焼畑の煙で、町がかすんでいる。煙害で、飛行機も飛ばないことがある。日中は36度を越える気候だが、午前中は太陽が煙にさえぎられて涼しい。
メイ・ホー・ソンでは、友人のビルマ少数民族パオの民主化組織PPLO(パオ民族解放機構)議長オッカーのオフィスにお世話になる。
理解しやすい為に、ここでビルマ問題のバックグラウンドを簡単に解説しておく。
ビルマは多民族国家である。ビルマ人の友人は、70%のビルマ人30%の少数民族と言い、少数民族の友人はビルマ人50%少数民族50%だという。
少数民族は仕分け方で50から100あるといわれる。その中の13の民族が民主化を求めてNDF(民族民主戦線)という連合体を作った。カレン・カレニ・シャン・モン・パオ・ワ等それに加盟する13の民族が少数民族の主だったものと思っていい。
1947年ビルマはイギリスから独立を果たすが、1961年の軍事クーデター以来今に至るまで軍事独裁政権が続いている。
1988年学生やお坊さんそして市民の民主化を求めるデモが、全土に広がった。軍事政権はそれを銃弾で押さえこんだ。民主化を求める学生やお坊さんの多くがタイ国境地帯に逃れた。そこで、独立以来民主化を求めて闘っていた少数民族と出会い、反軍政を掲げて大同団結した。
国際世論に抗えず、軍事政権は1990年、5人以上の集会を禁じ、主だった野党の候補者を拘束し、野党の選挙運動を禁じるという、手と足を縛り、目・口・耳をふさぐという状態で総選挙を行った。
結果はアウン・サン・スー・チー率いる野党のNLD(国民民主連合)が80%以上の支持を集めて圧勝した。それにも拘らず、軍事政権は今でも政権をNLDに移譲していない。
以上駆け足でたどった、ビルマの最近の状況である。
パオは少数民族13の内の一つだが、中でも少数派である。だがPPLOの議長のオッカーは、少数民族の連合体NDFの外交担当を勤める。
寒いアメリカで喘息が悪化したというオッカーを、チェンマイの病院に見舞った。彼は翌日退院して、中国に向かうといっていた。ビルマの軍事政権と闘う彼が、軍事政権を支援する中国に何故受け容れられるのか不思議だった。彼が言うには、中国には学生を中心に、人権問題を考えるNGOがたくさん出来ているのだそうだ。
日本にいると、中国で人権活動家が逮捕されたニュースしか伝わってこない。それは氷山の一角で、実は海中に潜った巨大な氷塊ほどの活動家がいるのだ。
チベットの騒乱もそうだが、何かもっと大きなことが起こる予感みたいなものを感じた。
メイ・ホー・ソンではNO.2の書記長ショウ・ルーが迎えてくれた。私が来ると聞きつけて駆けつけた、元パオの兵士ヤン・オンと彼とともに、その日のうちに国境に接する難民村、マカホエソン村に向かうことになった。
ヤン・オンはビルマ軍に捕らえられ7年間監獄にいた経験を持つ。彼から監獄での人権を踏みにじる、屈辱的な体験を聞いたが、途中涙で最後まで話せなかった。
親族がお金を積んで、ポーターとして働くことを条件に外に出られた。ポーターは裸足で裸でジャングルの中を銃弾など重い荷物を担いで運ぶのである。
ある日、先頭を歩いていた仲間が、目の前で地雷を踏んで亡くなった。ポーターは地雷よけでもあったのである。いつかは自分も殺されると思い、仲間と相談して銃弾の雨の中を逃亡した。ジャングルを何日も歩いて漸くタイ側に逃れた。
初めて会ったとき彼に笑顔はなかった。1年後彼の表情に笑顔を見た時、心からほっとしたことを覚えている。
動物保護団体にはとても聞かせられないが、彼は、朝獲ってきたというトラ(多分山猫の類であろう)の肉をぶら下げてきた。
メイ・ホー・ソンからマカホエソン村までは、道が舗装された今は一時間で行ける。舗装される以前は、さしも優秀な日本車も、ジャングルの坂道を登ることが出来ず、所々車を降りて後押しをした。乾季には砂埃にまみれて、全身まるで黄な粉もちのようになって五時間はかかった。
雨季には道はここかしこにクレーターが出来て、四駆にチェーンを巻いても、車は横倒しになって上った。帰ってくると全身まるでおはぎ状態であった。
マカホエソン村は、茶色の不毛の斜面に、張り付くように粗末な竹製の高床式の家が建てられている。ここの村人は、十二年前に国境のビルマ側から、ビルマ軍の攻撃を避けて逃れて住み着いた。
ここの村人と初めて出会ったのは、1991年3月人権を考える国際会議の視察団の一員として、タイ側から国境を越えて、ビルマ側カレン州の山頂にある、難民キャンプを訪れた時であった。88年の民主化運動の弾圧を逃れてきた学生の軍事キャンプと、パオの軍事キャンプに守られて、互いに助け合って暮らしていた。
近くにジャングル小学校という看板を掲げて、迷彩服の学生達がパオやカレンの子供達を教えていた。皮肉にも学生達が逃げてきて、難民の子供達は初めて教育の機会を得られたのである。
村人は、ここに来るまでビルマ軍に追われて、年に七回も村を移動した。
村長は「ここはビルマ軍にも見つけにくい場所で、とりあえず安全は確保できた。」と言っていた。その年の8月雨季の真っ只中スタデイツアーで訪れた時、まだキャンプは健在であった。雨の降りしきる中、新兵が軍事訓練を受けていた。学校は難民村の近くに移動して、かわいいお坊さん達が一緒に学んでいた。
しかし一年後そこもビルマ軍に攻略されてしまった。その後五年間、村人はジャングル地帯をさまよったのである。
十二年前村人は国境を越えて、タイのボーダーのこの地に落ち着いた。漸く攻撃にさらされない、安全な所に落ち着いたのである。そして四年前には、何故だか知らないが村人全員にタイの市民権が与えられた。
村人の多くは森林で働く。その周辺には国王の御用林がある。
耕作地はあるが、歩いて30分国境線の近くで、耕作するにも危険が伴う。
森林の仕事はここの村人にとっては、安全が保障された上収入になるのである。
タイの人々は、森林でのきつい仕事にはつきたがらない。難民は、願ってもない労働力の供給源なのである。それが市民権の理由ではないかと思う。
市民権をもらっても少数民族はブルーカードという身分証を持たされ、移動を制限される。
それにも拘らず、最近ここの若者達は高収入を求めて、チェンマイやバンコクに出稼ぎに行くようになった。粗末な竹製の高床式の暗い部屋に、真新しいテレビやDVDが場違いな美しい映像を映し出していた。
フィリッピンやバンコクのスラムや、インドの貧しい村でもお金が入ると何を差し置いても先ず買うものはテレビなのである。
毎年村長の家にお世話になるが、私が行くと何故か直ぐ酒が出る。トラ?の肉と地酒の強い焼酎で今年も酒盛りが始まった。
暗くなって村の少女達が踊りを披露してくれるという。案内された副村長の家の前の庭では、少女達が踊りの練習に余念がなかった。私達が行くと、皆伝統的な衣装に着替えてくると家に散って行った。待っている間、副村長は私達を部屋に通して、DVDを見せてくれた。彼らの故郷のシャン州のタウンジーの映像だった。森の都と言われるように、それは緑に囲まれた美しい町であった。
少数民族はカレン州・モン州・カチン州などそれぞれテリトリーを持っていた。しかし少数民族の中でもパオ・ラフー・パラウン・ワなど規模の小さな民族は、独自の州を持ちえず、シャン州の一部に帰属していた。そのシャン州は、民主化を求める少数民族の運動の見本市のような所である。
シャンの民主化組織のSSA(シャン州軍)はビルマ軍事政権と停戦交渉を結んだ部隊と、それにあくまで反対し民主化を求める部隊に分裂してしまった。そこに、麻薬の権益を一手に握る元中国の国民党の残党KMT のクンサーが参戦した。クンサーは私兵一万を擁する、巨大な力を持っていた。ビルマ軍を交えシャン州は三つ巴四つ巴の入り乱れた戦場になった。パオも独自の軍事組織を持っているし、ワに至っては、小粒だが戦闘では一歩も後には引かぬという過激な民族である。
そんな状況の中で、パオの村人達はとばっちりを受けたといえなくもない。
シャン州では多数のビルマ軍が展開した影響で、当然シャンの民衆も過酷な被害に遭っている。ビルマ軍はシャン州で、レイプを戦略として実行している。SWAN(シャン女性行動ネットワーク)のメンバーから「Ricense to Rape」(レイプの免許証)という衝撃的な報告集を預かった。それについてはまた機会を改めて書く。
パオ難民の村人が、タイの国境のこの不毛の地に住みついた状況は大体分かっていただけたと思う。
少女達は、パオの伝統的な黒いシンプルな衣装に着替えてきた。頭にターバンのように巻いた色とりどりのタオルが、パオ独特なのだ。
踊りは単純なステップで、手で表現をするこれまたシンプルなものであった。彼女達は、おそらくこの村か或いはビルマのジャングルで生まれて、タウンジーのことは全く知らないと思う。もの悲しいメロデイ―で恥ずかしそうに踊る彼女達を見ていると、村人の緑の街への望郷の念が、痛いほど伝わってきた。対峙する山のすそでは、漆黒の闇の中、焼畑の紅蓮の炎が美しかった。
踊りを囲む輪の中から、小柄で小太りの男が近かずいてきた。「私を覚えているか?」暫く顔を眺めていて、漸く思い出した。1991年初めて訪れた、ビルマのジャングルのパオの難民キャンプを守っていた、パオ軍の大尉であった。あの時は軍服で、腰に拳銃を携えて、厳しい顔つきで部下に命令を下していた。今の穏やかな笑顔からはあの頃の彼は想像しがたかった。
「もう武器は捨てたよ。」という彼と硬い握手を交わした。ビルマ国軍の圧倒的な武力を前に、カレン・カレニ・ワ・アラカンを除く多くの少数民族が武力闘争から政治闘争に大きく舵を切った。国の資源を切り売りして、中国などから武器を調達する国軍との軍事力の差は、歴然としていた。また、先進国のNGOが支援の条件として、非暴力を求めるという事情もあった。
少数民族の若者達は、さらに進んで運動を環境問題にシフトしつつある。環境問題は、民族も国境も越えて、同じ地平で経験を共有できる。それに平和問題を扱うNGOだけではなく、環境問題を扱うNGOの支援も得ることが出来る。国を離れて他国で活動せざるを得ない彼らにとって、活動は偏に支援に頼るしかないのである。
オッカーも一時はタイ国籍をとって、農民として暮らす等と言っていた。しかしパオ民族のことを考えれば、どんな形であれ、民主化運動を続けなければならならないと思い直したようである。またNDFの外交担当で培った世界の人脈を考えれば、他に彼に代わるべき人材は見当たらない。
踊りが終わって、村長の家に戻ると、大尉を先頭に村人がぞろぞろついて来た。
どうやら珍客が来たので、夜を通して話し合おう(飲み明かそう)という魂胆のようだ。
若者がいると民族楽器などを持ち出して、お祭り騒ぎになるのだが、今回は熟年ばかりなのでそれはないようである。村長の家は、村人の集会所もかねているのである。
旅の疲れで先に寝込んでしまった我々にお構いなく、明け方まで話し声が続いた。
村について早々、ヤンオンが村を案内してくれた。数分歩くと舗装路は途切れていた。目の前にそびえる山をさして、「あそこが91年あなたが訪れた所です。今はビルマ軍の前線基地です。」91年8月車を降りて、雨季のジャングルを滑ったり転んだりしながら上ったことを思い出した。
翌日マカホエソンを出て帰る途中、ワの村ラクタイを訪れる計画だった。ラクタイは戦闘的なビルマ少数民族ワの集落だが、現在はタイ軍のコントロール下にある。中国式の家が立ち並び、中華レストランと高山茶を目当てにタイの観光客などが訪れる。
毎回、亡くなったワのリーダーが、奥さんのために建てたレストランで昼食を取る。その美しい奥さんの入れてくれる高山茶が、飛び切り美味しい。
今回は残念ながらそこには寄らず、ショウ・ルーはワのリーダーの家へ案内してくれた。リーダーは新しく出来たキャンプに行っていて留守で、若いイケメンの息子が応対に出てくれた。伝統的なカレンの衣装を着ていたので、「あなたはカレンなのか?」と聞いたら彼は「いいえ、シャンです。」と答えた。父親はワだが母親はシャンなのでシャンなのだそうだ。ビルマの少数民族が、母系を引くということを初めて知った。若者はルマンと名乗った。
そのキャンプはタイ軍の監視所があって、許可を取らないと入れない。かなり難しいが、決して入れないわけではない。ショウ・ルーは朝から酒びたりで、思わせぶりなことを言って、どうもはっきりしない。挙句の果てに、「キャンプに入ったら何が起こるか保障できない。もし何かあったら案内した人に迷惑をかける。」まるでマッチポンプである。私達をここまで案内しておきながら、門前で帰れというのである。
「私たちは日本からドライブに来たのではない。現場に立って人々と交流したいのだ。ルマンに案内してもらうように既に頼んだ。」「よーし分かった。あなた方で話がついているのなら私はもう口をさしはさまない。私は何度も行ったから。ここで待つ。」何のことはない、彼はただ腰を落ち着けて飲みたいだけなのであった。
ワの中国部落を横目に、車は直ぐ未舗装路に入り、タイ軍の検問所に出た。ルマンがタイ軍の兵士と二言三言言葉を交わすと、直ぐOKが出た。「彼は友達なので問題はありません。」
気が抜けるほどあっけなくキャンプに入ることが出来た。
地形が複雑に入り組んでいて、キャンプ内はビルマ領なのだ。
山の斜面を切り開いて、竹製の高床式の家がそこここで建設途上であった。今まで幾多のキャンプを訪れて、私には見慣れた光景であった。ワとパオそしてシャンの兵士達30家族が暮らしている。年老いた兵や傷病兵などの住む後方基地として、人口はまだまだ増えるという。山からの湧き水を細いビニール官で導入しているが、人口が増えるととても間に合わない。
キャンプの管理をするルマンの父親が、掘っ立て小屋のオフィスに挨拶に現れた。母親も重要なスタッフとして働いている。日本から来たと自己紹介すると、現実をしっかりと見て日本の皆さんに伝えてくださいと頼まれた。
キャンプを奥に上がっていくと正面に山が切り立っている。「あそこにワの基地があります。兵士は毎日あそこまで水を運ぶのです。」私はちょっとした上りなのにもうはーは-息が切れている。「後ろを見てください。あの山がビルマ軍の前線基地です。」振り返ってみると、山の手前にタイの国旗が見える。「あれはタイ軍の基地です。」少数民族とビルマ軍の間にタイ軍が割って入っているという構図である。「ここの坂を登りきってしまうと状況が良く見えます。」
坂の上には狭い平地があって、監視所とミーテイングルーム(作戦会議室?)が建っていた。周辺には塹壕が掘ってあり、少しはなれたがけにはトーチカがあった。「3ヶ月前にここで戦闘がありました。一人なくなり数人が負傷しました。」30人なくなった、50人亡くなったというイラクの報道の前には、それはニュースのかけらにもならない。しかし現場に立ってみると、名もない一人の横死という現実が重くのしかかってくる。
夏の日差しが照りつけ、風の音が聞き分けられるほど静かであった。銃弾の音と人の死など想像できないほど平和な時間であった。細い道から若い夫婦が現れた。農作業に行っていたようだ。こんな危険な所でも農業が営まれているのだ。日本の休耕田という言葉が頭をよぎった。
ルマンは、ミーテイングルームに掛かっていたワの軍服を、私達に誇らしげに着て見せた。
オフィスの方に下って行くと、奥にお寺が立っていた。どこのキャンプもそうであるが、村人が何を差し置いても先ず建てるのは、お寺や教会なのである。
以前軍事キャンプの学生リーダーにも、お寺の建設の支援を頼まれた。戦闘に出て何時生命を落とすかもしれない。祈る場所が要るのだという。
先ず生命を落とすかもしれないという前提の下に、生活を組み立てていくという現実。実はそれが真実かもしれないが、温泉のような現実の中で生きるわれわれ日本人にとっては、それは想像さえできない世界だと思う。
キャンプを一周してきて、ルマンの父親にインタビューをした。
このキャンプをまとめていく上で難しいのは、ワのグループが二つに割れていることである。ビルマ軍に投降したクンサーの後、麻薬の権益を握ったワのグループと、ひたすら民主化を求め、少数民族の連合体NDFに参加するグループである。
このキャンプでは、ビルマ軍という共通の敵を目の前にして、パオとシャンを含め今のところ共闘は成り立っている。ここを突破口として、ワ民族の統一をめざしている。それなくして、ビルマの民主化等は夢のまた夢である。
このキャンプは欧米のNGOの支援で成り立っている。日本の支援はまだない。(チェンマイで、少数民族の若者には、日本はビルマ軍事政権を支援していると皮肉られてしまった。)
このキャンプには教育施設が全くない。それが一番の問題だ。日本の皆さんにこのことは是非伝えて欲しい。まとめるとインタビューは大体そんな話であった。
日本の支援は、国益を先ず優先し目立つ所にしか届かないように思う。むしろ支援が必要なのは、ここのように目立たない所なのではないだろうか。それに国益を考えた支援などは、本当の支援とは言えないのではないか。支援はされる側の視点でされるべきであり、する側の損得でされるべきではない。
小さな小さなNGOなみだの分かちあいアジアの代表としては、無力感を感じながらこのキャンプを後にしたのであった。
ビルマ問題は、昨年9月お坊さんの祈りの行進(デモ行進)が銃で弾圧され、日本のジャーナリスト長井さんが殺された。そのことで日本人の関心を呼んだ。
しかし半年も経つと、中国の餃子事件、そしてチベット問題と次々起こる事件にかき消されて、ビルマはすっかり忘れ去られてしまった。日本はつくずく情報の消費期限の早い国だと思う。
今回、無抵抗のお坊さんや市民に銃を向けるビルマ軍事政権の実態が、はしなくも明らかになった。あの映像が語る現実は、何もラングーンに限ったものではない。少数民族の暮らすタイ国境地帯では、日常的な出来事なのである。ただそれが伝えられないだけのことである。
私達小さなNGOの使命は、アジアの片隅でひそかに生きる力弱き人々の、なみだと怒りを伝えることだと思う。
日本は今までビルマ軍事政権の延命に多大な貢献をしてきた。そのことに私たちは責任を感じなければならない。無関心は、暴力を容認するという意味で、加担をも意味する。
先ずは関心を持っていただけると、ありがたいと思います。このレポートがその一助になることを願って止みません。
アジアの人権問題10
アジアの人権問題10
バングラデシュのベンガル人イスラム教徒が、強制入植するチッタゴン丘陵地帯に、少数民族チャクマに成りすまして潜入した。
私を熱心に誘った仏教僧スマナランカルの孤児院を訪ねた。そこではベンガル人入植者に両親を殺された120人の孤児たちが生活していた。最年少は5歳の少女で、10歳の姉と警察に保護されてここにつれてこられたという。どういう体験をしたのか、聞かなくとも大体は想像できる。森へ薪を拾いに行ったまま帰らない父親。買い物に出たまま帰らない母親。総てベンガル人イスラム教徒の入植者によって虐殺されたケースである。チャクマの60万人の内20万人が犠牲になったというデーターまである。
この孤児院は、チャクマら先住民族の人々のよりどころになっていた。中心のお寺兼集会所は、ドイツ人の宣教師の支援で建てられたという。ここでも仏教徒の生き残りを賭けたプロジェクトが、クリスチャンの手によって支えられていた。
チャクマの若い人材を育てる、カルカッタの郊外のボデイチャリヤという学園村も、フランスのパルテージというNGOの支援で建設された。フランスはやはりクリスチャンが基盤の国である。
日本の仏教徒即ちお坊さんは、この事実を全く知らない。知ったとしても積極的に動こうとはしない。普段奇麗事を並べ立ててはいるが、こういう悲しい事実に向き合おうとはしない。抹殺されかけている仏教徒の生き残りに手を差し伸べるのが、クリスチャンであるという事実を聞いても、お坊さんの反応は鈍い。
日本人が来たというニュースを聞きつけて、主だった人々が駆けつけてきた。突然多くの人に紹介されて、殆ど記憶に残っていない。その中で、バングラデシュ軍と先住民の抵抗組織であるシャンテバヒニ(平和軍)の仲介をしている老人に紹介された。彼は泰然自若として、横で爆弾が炸裂しても微動だにしないという感じで座っていた。そのほかの人々が自分のことを語りたがったが、彼は寡黙であった。1997年チャクマのお坊さんに化けて潜入した時も、彼に会った。彼は私を見抜いていながら、お坊さんとして処遇してくれた。
突然銃を肩につるしたベンガル人の兵士が3人踏み込んできた。偽チャクマがばれたのかと一瞬緊張した。日本人とばれて、逮捕拘留か或いは即国外退去が頭をよぎった。しかしみんなは平然と談笑している。兵士の後から満面笑みをたたえた男がやってきた。彼はチャクマ民族のただ一人の国会議員であった。先住民にも選挙権も被選挙権も認められている。ただ国を左右する勢力は、人口から言っても当然ながら持ち得ない。それは先住民の代表を認めるという海外へのパーフォーマンスだと思う。国会議員は、24時間体制で兵士が身辺警護に当たるのである。旧日本軍が使っていたような旧式な銃で、警護などできそうになくただお飾りのように見えた。
1995年東インドの南トリプラ州の難民キャンプにやはり潜入した。8万にのぼる難民のリーダーは、元大統領の補佐官をしていたウペンドラ・ラル・チャクマだった。
彼は影響力を持ちすぎて、難民として逃れざるを得なかった。でもこのことは海外のメデイアは、パキスタンのブット氏やシャリフ氏の時のようには報じなかった。バングラデシュが核を保有していたら、多分報道もありえただろうが。
ということで国会議員氏とは、友好的に会話を交わした。彼は2002年ソウルで開かれた仏教徒の会議の折、日本を訪れたスマナランカルとともに私の家に泊まっていった。
既に国会議員を辞めさせられ、一人の市民としてスマナランカルをサポートし、チャクマら先住民の人権獲得の活動をしていると語っていた。
孤児院を去る時、スマナランカルの甥だという若い僧が、「あなたをゴッドファーザーとお呼びしていいですか?」と訪ねてきた。仏教徒にゴッド(神)もおかしいが、なずけ親や里親などをさして言う。「父親は亡くなりました。母親は家を出て今どこにいるのか分かりません。」
子供達に別れに、「今ゴッドファーザーになってくれといわれました。今日から私には120人の子供が出来ました。1000Km離れた日本でいつもあなた方のことを思っている父親がいることを忘れないで下さい。」と挨拶した。あの子供たちのことは忘れたことはないが、具体的に何もしてやれていないことが悔まれてならない。
カグラチュリから最も虐殺が酷かった、ランガマテイに向かう予定だった。私をチッタゴンに送り込むプロジェクトのチームリーダー、ブラザージャラスは、「ランガマテイは、軍人がゴマンといて危ないから、車から降りないでパスしたらどうか。」と言われた。
「危険を避けていたら、チッタゴンには入らない。また来ることが出来るかどうか分からない。真実を知りたいから来たのに、ランガマテイを避けていたら、真実を避けて通り過ぎることになる。」
と言うことで、予定通り強行することになった。
ランガマテイは、カルカッタに亡命して、そこで先住民の子供の為のエリートを育てる学園村ボデイチャリヤを建てた仏教僧ビマル師の孤児院があったところである。
ビマル師は、2000人の孤児と暮らしていたところを、突然バングラデシュ軍に襲われて、子供達とばらばらになり、インドに逃れた。
彼の孤児院もそうだが、そこでは寺院や民家が焼き討ちに会っている。その跡にサウジアラビアなど中東のイスラムの支援でモスクが立てられている。焼き討ちの跡は今では、跡形もなくなっている。
車は山道を縫って峠を越えた。「あれがランガマテイだ。」ジャラスが指差す方に、青い水をたたえた湖と緑豊かな町が望見できた。2週間インドを旅してバングラデシュに入り、ずっと茶色い水しか見てこなかった。
まるで日本の信州に来たような錯覚に捕らわれた。こんな美しい町で数々の惨劇が繰り広げられたのである。一瞬の郷愁と同時に、ふるさとを追われた人々の悲哀が胸に沁みた。
遠くから見れば穏やかに見えるあの町が、凶器である鉄砲を携えた兵士の跋扈する所とはとても思えなかった。
アジアの人権問題9
アジアの人権問題9
チッタゴン丘陵地帯に潜入してもう一つ気になったのは、道行く人が殆どイスラム帽をかぶったベンガル人ばかりであることであった。ベンガル人と私達日本人と同じモンゴロイドの先住民は、顔を見ればすぐ見分けはつく。表通りを歩くチャクマなど先住民は殆ど見かけない。「これが問題なのだ。」ジャラスがぽつんと言った。
1900年宗主国イギリは、チッタゴン特別措置法を制定して、高原地帯に先住民以外の侵入を禁じた。当時高原地帯の人口は、先住民が97%を占めた。
ダッカの集会で学生のリーダーのサンチャイ・チャクマが「今高原地帯のベンガル人と先住民の人口比は、イーブンになったといわれています。いやもうベンガル人が逆転したと思います。」と言っていた。その言葉がぐっと現実味を帯びて迫ってきた。ベンガル人イスラム教徒の入植が、如何に急激に進められたかが分かる。
表通りの商店も、殆どがベンガル人の店だった。その商店街を歩く先住民も数えられるほどしかいない。一体みんなどこに行ってしまったのだろうか?
車が町の中心を離れると、道の傍らで牛や山羊を追う先住民の人々に出会った。車は構わずそんな人々の中を走り抜けるのだった。車におびえて、慌てて端っこに逃げ惑う人々を見て、これは尋常な光景ではないと思った。
田園地帯では、伝統的な民族衣装を着た女性達が集団で田の草取りをしていた。チッタゴン丘陵地帯の経済は、ベンガル人イスラム教徒に完全に握られてしまっていた。先住民は農林牧畜業の一次産業でわずかに命をつないでいた。家族が露命をつなぐほどの狭い田畑も、ベンガル人イスラム教徒は暴力を背景に奪いとっていた。
高原地帯は熱心な仏教徒の町であった。しかし寺院を打ち壊した後に、忽然とイスラムのモスクが建てられた。中東のイスラム国家の支援で立てられたのだと聞いた。
最初の訪問地カグラチュリは、虐殺や寺院の打ちこわしが激しかった所である。訪問した日のベンガル語の新聞に、お坊さんが殺されて埋められていたという記事が載っているとショポンが教えてくれた。そんな血なまぐさい所なのである。
田園地帯を抜けた川沿いに、仏教僧スマナランカルの孤児院があった。毎年毎年執拗に招待を受けて、その熱意に負けとうとう来てしまった。
ただ私のような単なるおっさんが来てもあまり意味がない様に思った。もっと政治的にも経済的にも力を持った人が来てこそ意味がある。ま、彼はわらにもすがりたい状況だったのであろう。とりあえずわらとしての使命は果たそうと思った。
スマナランカルが数人のお坊さんや孤児たちとハグで迎えてくれた。そこでは5歳から15歳まで120人の孤児達が共同生活を送っていた。ベンガル人入植者たちに、目の前で両親を殺された孤児もいた。そんなトラウマを背負って、子供達には笑顔が見られなかった。
子供達と出会うと私はどこでも一緒に日本語の「大きなうた」を歌ってきた。インドの村で、ビルマの難民キャンプで、売春婦として売られないように少女達をかくまう北タイのシェルターでそしてアメリカの小学校で。
アメリカの小学校を除いて、子供達はみんなこの歌を歌うとハッピーになれた。どこでも何度も何度も歌うことをせがまれた。
ここの孤児たちとも歌った。始め硬い表情の孤児たちにも、ジェスチャーを交えて歌ううちに、笑顔が見られるようになった。
「ここの子供達に海外からお客さんが来るのは珍しいのです。そして一緒に歌を歌う経験などもちろん初めてのことです。子供達のこんなハッピーな顔を見たことはありません。」スマナランカルは涙を流して喜んでくれた。
資金が全くなく、食料は田畑を借りて子供達と耕している。近くのチャクマの人々が、食材を差し入れてくれたりもする。食事を作るのも、近くのチャクマのコミュニテイ―の人たちが交代で担当している。
学齢期の子供達は、外の学校に行っている。独自に学校を作りたいが、とてもそこまで手が回らない。外の学校ではベンガル語で教えている。それに危険でもある。しかし子供達にとって教育は最も重要だ。
教育が第一だというのは、1995年日本人として初めて入った、東インドのトリプラの難民キャンプで、そこのリーダーのウペンドラ・チャクマからも聞いた。
インドのカルカッタに亡命している、仏教僧ビマル師も、世界に発信できる人材を育てる為に、カルカッタ空港の西の田園地帯に、ボデイチャリヤという学園村を作った。
チャクマ民族の生き残りは、偏に教育にかかっているというのが、それぞれに共通した認識であった。
タイ国境地帯のビルマ難民キャンプでも、教育は最重要課題だった。
入植者に襲われる危険を冒してでも、外の学校に通わせるというのは苦渋の選択ではあったと思う。
3,4人で暮らす薄暗い粗末な竹製のホステルの部屋には、古びた教科書とノートが数少ない身の回り品とともに整然と置かれていた。
ボデイチャリヤの子供達は、難民とはいえ選ばれた子供達である。授業は英語で進められ、教科も文系理系多岐にわたって内容も高度である。
それに比べここの子供達の教育環境は、比べものにならないほどお粗末であった。教科はベンガル語に算数、そして社会科でベンガルの歴史などを学ぶ。日常会話はチャクマ語なのだが、それを学ぶ機会はない。それはチャクマの伝統文化を失い、子供達をベンガル文化に同化させることになる。それでもスマナランカルは、「学ぶ」ことを子供達の為に選んだのである。バングラデシュがパキスタンから独立したのは、ウルドー語の強制に抵抗したことに始まる。私達日本人には実感が伴わないが、言語は命をかけてでも守るべきものなのである。
チャクマ語の挨拶は合掌して「ジュ―」という。その響きはネガテイブで、まるで消え入りそうに聞こえる。チャクマの現状を象徴しているように。
アジアの人権問題8
アジアの人権問題8
チッタゴン高原へ潜入する為、車をチャーターして向かった。メンバーは私に、ブラザージャラス、お坊さんのダルマパルそして恰幅のいいバングラデシュ女性である。
ダルマパルは図体はでっかく、ライオンのように吼えると形容され存在感があった。パキスタンのウルドウ―語強制に抵抗し、バングラデシュの独立運動を戦った闘士だったという。身体には無数に拷問の時うけた傷痕が残っている。
女性は、有能なジャーナリストの奥さんで、40歳前後であった。
筋書きは、ダッカで働くチャクマの男(私)が、妻(ジャーナリストの奥さん)とその父親(ジャラス)とお坊さんを連れて里帰りをするというものだったらしい。
ジャラスに「あなたは日本人には見えないから大丈夫だ。」と太鼓判を押された。多分自慢に思っていいことなのだ。
その日は、チッタゴン市内のカソリックの教会に一泊した。朝早くロビーに下りていくと、「おはようごじゃいます。」とどこかで聞きおぼえのある日本語が聞こえた。バングラデシュには勿論、チッタゴンに知り合いはいないのだが。
なんと先日スタデイツアーを終えて、カルカッタ空港で別れてきたばかりの友人のショポンがソファーにチョコンと座っていた。
私がチッタゴン高原に入ると聞いて、心配でたまらず、インドからバスを乗り継いで駆けつけたのだという。インドの長距離バスは、インド人にとっても相当きつい。それは彼と一緒に旅をして知っている。しかも国境を越えるとなると、もう一つの苦労があったと思う。もともと彼はバングラデシュで専門学校の先生をしていた、ヒンズー教徒である。イスラム国家バングラデシュで、あらゆる権利を奪われて、インドに逃げた経験を持つ。
昔の友人に片っ端から連絡を取って、ブラザージャラスならこの教会に立ち寄るだろうという情報を得たのだそうだ。私にとって危険なら、彼にとっても危険なはずである。全くの向こう見ずにあきれてしまった。
いよいよ高原地帯に潜入である。丸腰の少数民族仏教徒達は、殆ど農民で戦う術を知らない。ベンガル人イスラム教徒の入植者や軍隊の暴力に、ただ逃げ惑うだけであった。
危機感を感じた一部の人々が、シャンテイバヒニ(平和軍)という抵抗組織を作って、武力闘争で抵抗し始めていた。シャンテイバヒニに対抗する為、チッタゴン丘陵地帯はまるで軍事要塞のようにバングラデシュ軍でハリネズミになった。
高原地帯に入る直前ジャラスは私に諭すように言った。「ここではあなたはチャクマだから、日本語は勿論英語もしゃべってはいけない。時計、パスポートそしてカメラは私が預かる。少数民族は、身体検査をされる場合があるから。短い間隔でチェックポイントがある。もし不幸にして検問に引っかかったら、あなたは黙って笑っていればいい。私が総て答える。もう直ぐそこがチェックポイントだ。」既に開き直ってはいたが、少々緊張した。
狭い橋を渡ると、確かに橋の袂にトーチカがあって、銃口がこちらを狙っていた。緊張感を欠いた兵士が数人で守っていたが、臨戦態勢であることは間違いがない。
当然銃の安全装置ははずしてあるだろうな。そんな当たり前のことが頭を掠める。
バングラデシュ軍の銃の照準は、外を向いていない。内を向いている。バングラデシュがインドと戦ったら、30分で決着は付く。敵は外国ではない。そんなジャラスの言葉を思い出した。
高原地帯に入って先ず気がついたことは、そこはチーク材の宝庫であった。なるほどベンガル人イスラム教徒入植者は、これも目当ての一つだったのだ。
チークはタイでは乱伐で激減して、伐採禁止になっている。それを供給できるのは、ビルマなど開発が進んでいないところだけである。チークなど高級木材を巡っては、その国の強大な権益が絡む。したがって木材が絡むと多くの人が命を落とす。タイでは王室と軍隊が殆どの権益を占めているといわれている。
話しがそれるが、ベンガル人イスラム教徒とわざわざ断るのは、ボデイパルから抗議を受けたからである。彼はベンガル民族とビルマ民族のハーフのバルア民族である。チッタゴンで暴挙を働いているのは、ベンガル人のイスラム教徒の過激派と特定しないと、ベンガル人である自分もショポンも加害者の側に立ってしまうというのである。日本に生まれた私には到底思い至らない発想であった。
ベンガル人イスラム教徒入植者が狙っていたのは、高原地帯の肥沃な土地だけではなく、森林などの資源も含まれていたのである。
1960年にはアメリカの支援でカプタイダムが建設された。建設の為という名目で、ベンガル人イスラムの入植が加速された。それは先住民族の土地を取り上げ、家や寺院を打ち壊すそして虐殺という暴挙を伴った。
電力資源も、高原地帯では軍隊だけに供給されて、先住民はその恩恵にはあずかれなかった。電力の殆どはダッカなど大都市に送られている。逆にダム建設で、耕地面積の40%を失ってしまった。その保障は一切ない。
ビルマに連なる高原地帯は、おそらく他の地下資源も豊富なのではないかと思う。
ダッカの集会で学生のサンチャイ・チャクマが言っていたことを思い出した。「チッタゴンでは方々で木が切り倒されて、丸裸になっています。」
切り倒した後に植えられたのか、所々でユーカリを見かけた。成長が早いが、土地を疲弊させるとして南米で失敗した曰くつきの木である。東北タイでも大規模なユーカリ植林プロジェクトが計画されて問題になっている。
成長が早いので、紙パルプの原料として製紙企業の需要が高い。ベンガル人イスラム教徒は、軍隊をバックにこんな所まで手を伸ばしているのである。
高級木材のチークを売り飛ばし、その跡地に換金材としてのユーカリを植える。その後の土地が作物を作れない荒地になっても全く意には関しない。
矢張り現場に立ってみないと見えないものがあるのだと思った。
アジアの人権問題番外編ビルマ2
地下にたまっていたマグマが噴出するように、今年9月ビルマでお坊さんの大規模なデモが起こった。難民認定を受け、名古屋で民主化を訴えるビルマの友人ココラットさんは、お坊さんの決起を、デモではなく民衆の幸せを願う祈りの行進だといっている。
その祈りの行進を、またもや軍政は銃弾で制圧した。
銃で民衆を狙い撃ちする、そんなことはタイ国境地帯の少数民族の地域では日常的に行われている。そこにはメデイアのカメラも入らないだけのことである。
JETRO(日本貿易振興会)はすかさず、「経済制裁では問題は解決しない。」というコメントを出した。冗談ではない、では今までの積極的関与政策で、解決の糸口を見出せたか。全く軍政は何も変わっていない。ビルマ軍事政権に、関与政策は全く通じないばかりか、政権に居座る為の助けにさえなっている。コメントは日本企業がビルマに関わるための伏線になっているとしか思えない。
中国がビルマを支援している限りは、制裁は実効性に問題があるというのがその理由である。確かにそれには一理ある。中東やアフリカからの石油を最短距離で運ぶ為、中国はビルマを通ってアンダマン海から、インド洋に抜けるルートを確保したい。アンダマン海は、中国にとって軍事的にも重要な所である。
そしてビルマは中国にとって武器の重要なお得意さんでもある。国境の少数民族の軍事キャンプで確認したが、中国は民主化運動の側にも武器を売っている。ビルマ軍と民主化運動の戦闘が続けば、中国の武器が売れるという構図である。
国連の安保理で中国がビルマの経済制裁に待ったをかけるのには、そんな理由がある。
だからといってそれを容認するわけにはいかない。
中国は北京五輪を控えている。それを人質に、人権問題で揺さぶることが出来る。今がその千載一遇のチャンスである。
民衆の搾取を嫌う、社会主義国家の中国が、ビルマの民衆の血を犠牲にした経済的利益で潤うのは許せないはずである。
南アフリカのアパルトヘイトは、関与政策ではなく、経済制裁が功を奏して解決したのである。あの時も経済制裁は黒人が苦しむという論理がまことしやかにささやかれた。しかし黒人の方から、経済制裁を求められたのである。ネルソン・マンデラの当時の奥さんウイニーが「私たちは鎖を快いものにすることを望んではいません。鎖を断ち切って欲しいのです。」と訴えた。
ビルマも同じで、経済制裁は民衆が求めているのである。もし経済制裁でビルマの民衆が苦しむとしても、それは一時的なことである。ビルマの民衆はもう50年近くも、軍事独裁政権の暴力におびえてきた。それが今後も続くことの方が余程耐え難いのである。
元はといえば、ビルマ国軍は日本軍が作ったものである。その軍事政権を日本政府はODAや、債務の免除などで今まで支えてきた。
ジャーナリストの長井さんが殺害されて、日本政府は漸く重い腰を上げた。
今こそ人権を表に立てて、中国を巻き込み、ビルマ軍事政権の退陣を図る時である。
そのためにも日本の民衆から声を上げていかなければならないと思う。
ココラットさんは「是非ビルマに経済制裁を果たしてください。そして民主化が確立するまで、ビルマ観光は見合わせてください。今ビルマ観光をするのは、軍事政権を太らせるだけです。」と訴えています。
大好きな日本の人々に、自分の国に来ないで下さいといわなければならない彼の胸中を是非想像してみてください。
アジアの人権問題番外編ビルマ
アジアの人権問題番外編ビルマ
ビルマの民主化運動が、またまた軍事政権の銃弾で制圧された。公衆の面前で、国家権力が丸腰の民衆を銃で撃ち殺す、そんな暴挙が許されていいはずはない。
1995年若者達に紛れて、ビルマに潜入した。私は1989年以来タイ国境地帯で、民主化運動を闘う、学生やお坊さんそして少数民族の人々と関わってきた。国境を越えて何度も軍事キャンプや、難民キャンプを訪れたりした。日本国内でも、ビルマの民主化を求めるデモに参加した。
そんな私が、表玄関からビルマを訪れようと計画した時、少数民族のリーダーが「お前など空港で直ぐに追い返されるか拘束されるに違いない。」と請け負ってくれた?ビルマのビザはバンコクで意外に簡単に取れた。ラングーンの空港で一人では目立つので、若者のグループに紛れ込んだのである。若者達こそいい迷惑であった。もしばれていたら彼らも私と同じ運命をたどったのだ。
宿探しは困難を極め、深夜に及んだ。おかげで一般旅行者が見ることの出来ないことを体験をした。目つきの鋭い軍人らしき数人が、フロントで泊り客のチェックをしているのを見かけたのである。昼間には見られない軍事政権の素顔であった。
ホテルの従業員は、殆ど学生であった。軍事政権は、ビルマのASEANの加盟を控えて、学生運動を警戒し全国の総ての学校を閉鎖していた。学生達は英語の勉強の為といって、ホテルで働いていたのである。ラングーンでは取材が不可能だと思った。
それで1988年の民主化運動で、お坊さんが過激なデモを繰り広げた、マンダレーを訪れた。
マンダレーまでの夜行バスは、ボデイに日本のホテルの名前がそのまま残っていた。エアコンからは冷気と温風が同時に吹き出した。急ブレーキを踏むと、座席が前に飛び出した。
マンダレーで1日2ドルで雇ったサイカ(自転車ハイヤー)のドライバーは英語が少し出来た。彼に民主化運動の取材に来たと明かしたら、自分も学生で、運動に参加してラングーンでスーチーさんに会ってきたと言った。それですっかり彼を信用してしまった。
民主化運動に熱心なお坊さんを知っているというので、彼に案内してもらった。最初に会ったお坊さんは、質問には一切答えないで、只管仏陀の話をした。ビルマの現状や民主化運動の現状については、全く聞きだすことは出来なかった。
次ぎに案内されたのは、ドイツから帰ったインテリのお坊さんだった。彼はサイカのドライバーを指差して、「彼は英語を話すのか?」と聞いた。英語を話すのでガイドをしてもらっていると答えると、彼は「私には話すことは何もない。」と断られてしまった。
今度こそと案内されたのは、ストリートチルドレンの為の学校を開いている、兄弟のお坊さんであった。二人はドライバーに外で待つように指示してからインタビューに応じてくれた。彼らは民主化を求めスーチーさんを支持していると語ってくれた。私の友人で、国境地帯で戦う青年僧のリーダー、ウ・ケマサラも知っているということだった。しかし、彼らはビルマの状況、そして民主化運動の現状について殆ど情報を持っていなかった。むしろビルマに関する情報量は、私の方が多い方だった。ビルマ国内では情報が遮断されてしまっているのである。私のビルマ滞在中、1988年民主化運動を銃弾で制圧したソ・マウン将軍が亡くなった。それをビルマから帰ったバンコクで知った。ビルマでは一切報道されなかった。兄弟が情報を持っていなかったのも無理はなかった。
彼らは、お寺には必ず軍事政権のスパイが入り込んでいると言った。お坊さんがどんな説教をするかチェックしているのだという。もし軍事政権に批判的な説教をすれば、直ちに逮捕されてしまうという。同じように学校にもスパイは入り込んでいる。街角でもどこにでもスパイは目を光らせているのだという。そのスパイ(レポーターといっていた)に私がまんまと引っかかってしまうとはその時はまだ気がつかなかった。
お互い連絡を取り合おうということで彼らとは別れた。しかしそれが彼らにどんな危険を及ぼしたかは、その時は分からなかった。
次ぎに連れて行かれたのは、古い立派なお寺であった。日本的な木造の大きな仏像が印象的だった。しかしその時の私は、仏像は全く目に入らなかった。紹介されたお坊さんは、民主化運動に熱心だとドライバーが言っていた。しかし彼も寺の歴史と、仏教の教理を説くだけであった。ドライバーが外の茶店に誘ったら話してくれると耳打ちしてくれた。
茶店に来たお坊さんは、「私に一体何を聞きたいのか?」と訪ねた。「私はタイ国境地帯の民主化運動を支援してきました。ビルマ国内の運動の様子が全く分からないのでそれを知りたくて来ました。」と答えた。「私には何も話せない。もし私が何か話したとしたら、あなたが帰った後、私は軍隊に呼び出されて尋問を受けるだろう。そして拘束され或いは殺されるかもしれない。その頃あなたは安全な日本にいる。そんな状況で一体私に何を話せというのだ。」最後の言葉は怒りに震えていた。
彼の言葉を裏返せば、彼には語りたいことがあるということであった。彼が何も語らない、語れないということで、ビルマの現状がよくわかった。そしてドライバーが何者かということも。
最後に、民主化運動に熱心だというドライバーの先輩のツアーエージェントを紹介された。
彼に「DKBOという名前を聞いたが一体どんな組織なのか?」と訪ねてみた。「私もその名前は聞いたことがある。平和運動をしている組織だ。」という答えが返ってきた。DKBOというのは、カレン仏教徒民主化機構という軍事政権の作ったダミーで、その軍事組織が先年タイ国境の民主化運動の拠点マナプロウを攻め落とした。彼は私の誘導尋問に引っかかって馬脚を現したのである。
分かれる時彼らに「私はビルマの人々が大好きだ。その大好きな人々が平和で自由で安心して暮らせることを願っている。あなた方が鉄砲を持った、力のある人々ではなく、武器も持たない弱い民衆の為に働いてくれることを願っている。」と言って握手をした。二人とも気まずい顔をして去って行った。
ビルマに入ったもう一つの目的は、スーチーさんの歌を集めたテープを、密かにビルマ国内に広げようというプロジェクトを実行することであった。
ビルマ問題は、何故か中々人々の関心を引かない。何とか関心を持ってもらおうと、東京を中心に歌手活動をしている、横井久美子さんの協力でスーチーさんの歌を作った。
ビルマの学生がそのことに興味を示し、スーチーさんの歌を集めてテープを作りビルマ国内で広めようという計画を立てた。アメリカ、ノルウエー、タイ、ビルマ日本の歌が集まって30分テープが出来た。
そのテープを持って乗り込んだのである。街角でスーチーさんの写真を見ることは先ずない。しかし民衆は、家の中にひそかに彼女の写真を飾っていた。テープが見つかったら、強制送還は免れないであろう。それで済めばまだ救われる。テープを渡す相手は限られてくる。
「おやじ」というニックネームを持つ、路上レストランのオーナーがいた。50歳に近いが茶髪で、日本人観光客にも評判の店だった。
彼の父親は、独立の父、アウンサン将軍と日本で軍事訓練を受けた31人の志士の一人で、まだ健在だといった。スーチーさんからの手紙があるので見せると、家に誘ってくれた。
家捜ししたが、スーチーさんの手紙は見つからなかった。彼の父親は80歳前後でかくしゃくとしていた。彼は1961年のクーデター以来、27年間に亘って独裁政権に君臨した、ネ・ウインなんかは、31人の志士の中でもどん尻に近かったと意気軒昂であった。
「おやじ」にテープのことを話すと、「面白い、ダビングして広めよう。」と言ってくれた。それが如何に危険なことかは、お互い分かっていた。
マンダレーに長居をするのは危ないので、大急ぎで古い都バガンに移った。
マンダレーは寺院が現役の町、そしてバガンは既に役目を果たした寺寺が眠る町とでも言ったらいいだろうか。往時は数万人の僧が住んだというこの町は、歴史の中に深く沈んでいるという感じがした。その古い寺寺を巡りながら、話をしてくれる人を捜し歩いた。
観光スポットはだめだろうと、小さな村にも足を運んだ。安普請の小さな寺で、年老いた住職が「日本の歌を知っている。」と言って、「はとぽっぽ」の歌を懐かしそうに歌ってくれた。その寺で一人の男に「ビルマではどこに行った?」と訪ねられた。私は探りをいれることも考えて、「カレン州とカレニ州だ。」と答えた。いずれも軍事政権と強行に軍事対立している所である。彼は愉快そうに大笑いして「カレン、カレニ。」と繰り返しつぶやいていた。「私の家に来るか?多分私の弟はあなたに興味を持つと思う。」と言ってくれた。
彼の家は牧畜農家のようで、庭になめした羊の皮が一面に干してあった。家の中を案内してもらったり、日本の話をしているところへ、疲れた様子で彼の弟が帰ってきた。
彼は大学生だが、もう半年も授業がないとこぼした。学校に行っても学生が2000人いるのにコンピューターは一台しかない。それで一体どんな授業が出来るのか。彼は雄弁に話し始めた。今までたまりたまっていたものを、一気に吐き出すように。
学校が閉鎖されているので、旅行ガイドをしている。海外からの友人に会うと、いろいろな情報が得られる。自分も海外に出かけたいが、それが出来るのは、軍人の家族だけである。能力がなくても、軍人の子供は自由に海外留学できる。私は一生外国に出られないかもしれないのに。彼は、学生なのに勉強が出来ない、あらゆる可能性を閉ざされているということに強烈な焦りを感じていた。
スーチーさんに対する不満も、どうしようもない焦りからきているのだと思った。
「彼女は寝ているのか?それとも仏陀になったのか?彼女ももう50歳だ。時間はない。今動かなければ、我々の不自由は永遠に続いてしまう。」スーチーさんが動けないのは、百も承知なのだ。彼女がビルマに留まっているだけで、軍事政権にとっては強烈なプレッシャなのである。それでも彼にそう言わせるのは、民主化への道が全く見えないことへの焦りであったと思う。
ビルマに入る前、タイ、ビルマ国境地帯のメイ・ホー・ソンの寺で、友人の民主化運動のリーダーの青年僧ウ・ケ・マサラが私に言った。「7月X日を見ていてください。大きなことが起こります。」ビルマのASEAN加盟に反対する大規模なデモが計画されていたようだ。でもそれは不発に終わった。ビルマでは何事も起こらなかった。ビルマを出て、バンコクでラングーンで小さなデモが鎮圧されたというニュースを見た。
最後に彼に「今あなたに何が必要か?」と訪ねた。彼は即座に「武器が欲しい。武器が手に入ったら一人でも闘う。」と答えた。戦争のプロ、ビルマ軍は容赦がない。彼の言葉が如何に現実離れしているか、だがそれを否定する気にはなれなかった。
別れ際彼は日本の友人宛の手紙を私に託した。私は軍事政権のスパイに素性を知られてしまっている。私が持っていると彼に危険が迫る。それで空港で事情を話して、若い日本人にバンコクまで持って言ってもらうように頼んだ。彼は「私も民主化を応援しています。」と快く引き受けてくれた。
持ち出し禁止の新聞も、わざと汚い靴を包んでリュックに忍ばせた。その新聞には軍事政権トップの、タン・シェ議長のことは殆ど触れられていなかった。NO.2のキンニョンの動静だけが報じられていた。「キンニョンは、狐だ。スーチーはブッダだ。」という学生の言葉が蘇った。
出国はあっけないほど簡単に済んだ。スパイも私などには目もくれなかったのかもしれない。ただ私のような旅をしなかったら、おそらくビルマはみんな親切で、食べものも美味しくて、とてもいい国だで終わってしまうであろう。一緒に入国してバガンまで一緒だった若者がしみじみ言ってくれた。「あなたと旅をしなかったら、ビルマのことは何も見ていなかったと思う。」
日本に帰国して頼まれた手紙を送った。友人という日本人からは、なしのつぶてであった。多分彼はビルマに入ったが、何も見てはいなかったと思う。
ストリートチルドレンの為の学校を開いていた兄弟のお坊さんに連絡を取ったが、返事は返ってこなかった。彼らの生死は確認のしようがない。
日本は戦争でビルマに多大な迷惑をかけた。元はと言えばビルマ国軍は、日本軍が育てたものである。しかしビルマの多くの人々は日本をこよなく愛している。日本がいつかビルマを自由にしてくれると思っている人も多い。
日本人の多くがビルマの民主化にあまり熱心でないのが本当に残念である。

