メディア掲載記事

新聞などに掲載された、りゅう・チャクマ(S.T.A.代表)の記事を掲載しています。みなさんのコメントをお待ちしています。

アジアの人権問題12

            アジアの人権問題13
 10回にわたって、バングラデシュの東部チッタゴン丘陵地帯で、今も尚止まない深刻な人権抑圧の現状を伝えてきた。 
チッタゴンに関するこうした記事が、総合的にこうしてメデイアで取り上げられたのは、
おそらく初めてのことではないか。

コックスバザールのお寺の多くが、べンガル人イスラム教徒の入植者が建てた新しい家に包囲されてしまっていた。仏教徒である先住民ラカインたちは、参詣することが出来ないで、寺は荒れるにまかせていた。それは先回書いた。
コックスバザールの小高い丘に、ビルマ式の白いパゴダが建つている。パゴダは本来ブッダの遺骨を埋葬した上に建てたものとされている。中国を経て日本に来ると、それは五重塔になる。いわば仏教徒にとっては、ブッダの象徴である。パゴダの丘に連れて行ってもらった。丘の周辺の斜面は、びっしりとベンガル人イスラム教徒の家が立ち並んでいた。
丘を切り崩してさらに家が建設途上であった。
状況を具に見る為に、一人裏に回ってみた。数人のベンガル人の若者が、たむろして厳しい目つきで、こちらを伺っていた。ジャラスたちが慌てて飛んできた。「一人になると彼らは、襲ってくる。気をつけろ。」   
そうだ私は今チャクマなのだ。どこかで、自分は日本人なのだから安全だと思っていたのだ。それが実は大きな落とし穴になる。危うく私もその穴に落ち込む所であった。
確かに日本人だと言うことで助かった経験はある。インドの北ベンガルのシリグリから、ノービザでブータンに入った。ホテルの前で写真を撮っていたら、一人のブータン人が警官を連れてきた。私は危うく拘束されそうになった。どうやら私はネパール人に間違えられたようであった。
ブータンではネパール人が経済的実権を握っていて、ブータンでありながら、ブータン人はネパール人に管理される立場にあった。そんなネパール人はブータンでは嫌われ者なのだ。国境で写真を撮っているネパール人は、ブータンの人にとっては、危険な存在なのであった。
慌ててホテルに駆け込んで、日本人であることを証明してもらって危機は脱した。
日本人であることが救いになるか、或いは危機を招くかは、国や地域によって、そして政治情勢で変わってくる。
アフガニスタンで、草の根支援に長く取り組んでいる、ペシャワール会の中村哲さんが、「以前は日本人であることで安全でした。しかし日本がアメリカのアフガン攻撃の支援をするようになって、日本人が標的になる傾向にあります。」と悔しそうに語ってみえた。
悲しいことにその不安が現実になってしまった。ペシャワール会の伊藤和也さんが、アフガンで凶弾に倒れたことは、いまだ記憶に生々しい。
政治的選択が、草の根レベルで支援活動をする人々を危機に陥れることをもっと真剣に考えなければならない。
もう一つ海外では、日本人は総て金持ちであると考えられている。それが危機を招くこともある。20年ほど前の話になるが、友人のタイ人に、タイでは日本円の3000円ほどで殺人を請け負う人がいると聞いた。それを考えれば、タイを旅する日本人は、格好の標的と言える。脇の甘い日本人は、特に注意が必要だと彼は言った。
わき道にそれてしまったが、チャクマになって潜入した筈が、未だチャクマの危機感を身体で充分に理解していなかった自分を恥じた。
ベンガル人に周囲を包囲されて、機能を失ったお寺が多い中で、コックスバザールで有名な古寺は、参詣客でにぎわっていた。
ラカインのコミュニテイで資金を出し合って、寺の周囲の土地を買い戻したのだそうだ。もともと寺の土地だったのだから、買い戻すと言うのもおかしな話だが、お金と土地を交換したと言う事実があれば、ベンガルイスラムも何もいえない。
その裏には、イスラム教徒ゆえにもつ弱点をつく戦略があった。
コックスバザールでも、表通りの商店街はベンガル人イスラム教徒に占拠されてしまっていた。しかしイスラム教徒は、女性が店に立つことは禁じられている。
ラカインが共同で出資して、店を一軒買い戻した。その店では女性が店員として店頭に立った。毛むくじゃらのむくつけき髭の男性の店より、着飾った女性の店のほうが当然客の出入りが多い。そんな風で、一軒一軒店を増やしていった。それで寺の土地を買い戻すことができたと言うのである。
確かに風采の上がらぬ髭ずらの男の店は閑散としていた。それに引き換え、ラカインの店は、華やかな雰囲気で自然にそちらに足が向く。コックスバザールは女性のソフトパワーで、暴力のイスラムベンガル人を凌駕するかもしれない。チッタゴンを変えるのは女性かもしれない。1984年インドのナグプールで、不可触民の仏教徒の1万人を越すデモに参加したときもそう思った。このインドを変えるのは、女性かもしれない。
どこを見回しても、男性中心の世界ばかりである。人口の半分を占める女性が第一線に立った時、世界は変わるのかもしれない。そんなことを考えてしまった。
その寺には、華やかなサリー姿の女性達もお参りに来ていた。ベンガル人の仏教徒達であった。赤や青の鮮やかなサリーを風になびかせて参道を歩く女性達、チッタゴン高原の先住民の地味な民族衣装を見慣れた私には、全く別世界に見えた。もともとベンガル地方は仏教徒の多い地域であった。イスラム国家になった今は、殆ど破壊されてしまったが、ベンガル地方には仏教遺跡がまだ多く眠っている。
ベンガル人を含めて、地域住民に護られているお寺もあった。チェルダー姿の若い女の子が、熱心にお参りする姿が心に焼きついた。コックスバザールの場合は、立派な伽藍は却って標的になるようだ。小さな民衆の中で息ずくようなお寺が生き残っていると感じた。
この日チッタゴンで、学生のリーダーがベンガル人イスラム教徒の入植者に殺害されたというニュースが入ってきた。
翌日チッタゴン全域は、抗議のゼネストに入るという。確かに夕暮れの町は、異常な静けさに包まれていた。ゼネストに入ったら、潜入している私の安全は保障されない。と言うことで、急遽その夜の内にチッタゴンを逃げ出すことになった。
戻ったダッカで、翌日クリスチャンと仏教徒そしてイスラム教徒の知識人が集められて、報告集会を持った。二人のジャーナリストも参加していた。
「これだけあからさまな人権抑圧がありながら、情報が全く伝わっていない。ジャーナリズムの責任は大きい。」と言う私の問いかけに彼らは、「構造的な問題がある。社会構造を変革しなければ、ジャーナリズムの責任を果たすことは難しい。」と答えた。
バングラデシュのジャーナリズムも、実はチッタゴンの状況は、把握していたのだ。
バングラデシュの農村の自立支援をしているシャプラニールの知人は、「バングラデシュは日本で言えば鎌倉時代の感覚です。首相が部下の奥さんを自分のものにするために、部下を左遷するなどと言うことが現実におかなわれています。」
鎌倉時代というのは一寸問題発言かなと思うが、独裁国家と言うのは、軍事でも一党でも言論の締め付けが重要な戦略として用いられる。
そうした構造を変革するのも、ジャーナリズムの使命のもっとも大切な部分だと考える。
しかし権力に抗えば、その存続さえ危ぶまれるとなれば、言わなければならないこともいえなくなるのは理解できる。
私のようになんでも自由に言える立場のもの達が、積極的に発言していかなければと思う。


 


アジアの人権問題12

            アジアの人権問題12
 少数民族の大量虐殺があった、バングラデシュのチッタゴン高原へ、チャクマに成りすまして潜入した。カグラチュリの孤児院そして、最も虐殺の激しかったランガマテイを垣間見た。潜入プロジェクトのリーダー、ブラザージャラスは、「バンダルバンを案内したいが、今戦闘の真っ只中で危険なので今回は見送る。」と言った。私は長年培ってきた人脈が、一種の保険だと思っている。ビルマの国境地帯でも、少数民族パオの友人の人脈を通して旅をする。でなかったら何時地雷を踏んでもおかしくない。
現場の状況判断は、やはり現地の人に頼るに限る。今回はジャラスの言葉におとなしく従うことにし、コックスバザールを最後の訪問地に選んだ。 
ここは港町として、貿易などで人の出入りが頻繁な、活気のある町である。日本の中小企業の進出も多く、特にアパレル関係でこの地名を知っている人に何人か出会った。
ジャラスの話しでは世界一長い海岸線があるそうだ。
観光でも知る人ぞ知るところらしく、日本人専用の海岸まであると言う。
街に入ると人と車でごった返して、確かに活気のある街だった。ここには国連やNGOの車も目立った。何故か薬品会社の千葉ガイギーの車を見かけた。
チッタゴン丘陵地帯の一部であるここは、ラカインの人々が多く住む。ラカインは、アラカンとも言って、ビルマにまたがって住む。友人のビルマ民主化運動の青年僧のリーダーウ・ケ・マサラはラカインである。
ラカインはバングラデシュでは、ベンガル人イスラム教徒の暴力と戦い、ビルマでは軍事独裁政権と戦っているのである。
お寺でであった青年は、私たちは200年間戦い続けてきましたと平然と語った。確かに200年前ラカインは王朝を築いて独自の文化を誇っていた。ビルマに対する戦いは、独立運動なのである。若者と話していると、闘うことにラカイン民族の誇りと言うものを感じているように思った。
ラカインの殆どは熱心な仏教徒である。しかし、案内されたお寺は、周辺を取り囲むように、ベンガル人イスラム教徒が入植をし、危険で参詣に行く人が途絶えてしまった。
参詣にきたラカインの人々は、入植者に襲われて暴力をふるわれ、殺される場合もあったのである。寺は前年ベンガル地方を襲ったサイクロンで大きな被害を受けていた。しかし修理もままならず、寺の屋根は大きな傷跡をさらしていた。
暗い寺の中で、年老いた僧が一人暮らしていた。コックスバザールにはこうした寺がたくさんあるのだという。寺はそのうちに朽ち果てて、跡にはサウジアラビアなどイスラム国家の支援で、モスクが建てられる。1950年代全く見られなかったモスクが、既にチッタゴン全域で数箇所建てられている。
周辺住民のベンガル人の険しい視線が集中する中を、後ろ髪引かれる思いで寺を後にした。
チッタゴンに入って、実際ベンガル人イスラム教徒の脅威を身近に感じたのは始めてであった。
学校を見ればコックスバザールのおかれた立場が良く分かると言うので連れて行ってもらった。
イスラム教徒と仏教徒の子供が一緒に通う学校に入った。こんなことして大丈夫なのかなと思ったが、ジャラスは構わず、ずかずかと教室に入っていった。
クラスの中でラカインは何人いるのか手を挙げてもらった。大体一割の子供が手を挙げた。他のクラスも似たようなものだった。
1950年代には、チッタゴンの先住民は97%を占めた。コックスバザールの先住民は97%がラカインだったのである。学校に行く子供は限られているのかもしれない。しかしそれを考えても、チッタゴンの人口はベンガル人が多数派になったと考えられる。
恐るべき勢いで入植が進んだことがわかる。
先生は総てベンガル人である。授業ももちろんベンガル語で進められる。ラカインは独自の言葉を持っているが、それを公に使うことは許されない。いわゆる同化政策で、このままではチッタゴンもいずれかはベンガル化されてしまう。
チッタゴンには、多数の少数民族が、それぞれ独自の文化を持って暮らしている。宗主国イギリスが、チッタゴン特別措置法で他民族の流入を規制したのは、その多様な独特の文化を護るためであった。植民地政策は絶対に正当化されるものではないが、かけがえのない文化を護ることには、普遍的な正当性があると思う。
因みに、ジャラスが大胆な行動にでられたのは、彼が以前チッタゴン大学の学長をしていたからだと言うことを後で知った。
その夜コックスバザールラカイン福祉協会が、私の為に集会を開いてくれた。ラカインの人々が結束して、ベンガル人入植者に合法的に先住民の権利を認めさせていこうと、決死的な活動を始めていた。
非合法的ではあるが、日本からわざわざ現場に足を踏み入れた物好きがいる。蟻の一穴というが、そこから世界にコックスバザールの状況が伝わると願うのは理解できた。
しかし、私は潜入したのである。文字どおり密かに潜り込んだのだが、こんなおおっぴらに集会を開いていいのだろうかと考えてしまった。
彼らが最も心配するのは、やはりラカイン固有の文化が徐々に失われていくことであった。
西パキスタンのウルドウ語の強制に対して、東パキスタンが独自のベンガル文化を護ろうと独立戦争を闘った歴史から約20年。今バングラデシュとして独立した東パキスタンが、今度はラカイン文化を言葉を通して奪おうとしているのである。歴史の皮肉と切り捨てることは到底許されない。
ラカイン福祉協会は、教室を開いてラカイン語の学習を始めた。ベンガル人イスラム教徒の圧倒的暴力には、消極的ではあるが、文化的抵抗で民族を護るしかない。
世界から見たら、極めて小さなしかも歴史的にも経済的にもあまり影響を及ぼさない現実かもしれない。しかしこれは現実なのである。こうした現実がある限り誰かが伝えなくてはならない。


アジアの人権問題11

            アジアの人権問題11
 バングラデシュのチッタゴン丘陵地帯では、1957年以来少数民族モンゴロイド仏教徒が、ベンガル人イスラム教徒の強制入植で大量虐殺された。
外国人は丘陵地帯へは特別な許可証がないと入れなかった。しかし、許可証を申請してもまずは下りなかった。バングラ政府は、チッタゴンで起こったことが外に漏れるのを恐れたのである。厳しい言論統制で、チッタゴンの虐殺は、海外には全く伝わらなかった。
1996年8月私は少数民族チャクマに成りすまして、チッタゴン丘陵地帯に潜入した。
潜入プロジェクトのリーダー、ブラザージャラスは、特に虐殺の激しかったランガマテイは軍人が多くて危険なのでパスしようと言い出した。危険は初めから覚悟の上という、私の一言でランガマテイにも行くことになった。そこは豊かな水と、緑に囲まれた美しい町であった。
緊張して入った街中は、外見上至って平穏で、激しい虐殺があった痕跡はどこにも見当たらなかった。それは当然のことで、証拠になるものを残せば、バングラデシュ政府の罪過が問われる。焼き討ちにあった民家や寺などは、何ひとつ残さず瞬く間にきれいにかたずけられた。
街の中心部は、ベンガル人が悠々と闊歩して歩き、先住民の姿は殆ど見かけない。車は細い路地に入って止まった。さらに細い坂道を下っていくと、なだらかな斜面の両側に、粗末な小屋がびっしりと建っていた。カプタイダム建設で、家も田畑も奪われた農民達であった。家や土地の保障もなく、仕方なく空き地に不法に住み着いたのである。もちろん耕す田畑などはなく、同じ民族の支援のみで生き延びていた。そんな絶望的な暮らしの中でも、子供のいる家からは笑い声が漏れていた。ウイークデイの日中にも拘らず、日本ではどこでも見かけるような若者達が、あちこちでたむろしていた。
カプタイダムは、アメリカの全面的な支援で建設された。内政不干渉という壁はあるものの、独裁的強権国家では、支援がもっとも弱い民衆を苦しめる結果を生み出すことも考えなければならない。単純に支援とか援助というが、それは時には人助けと全く逆のことをしてしまう。
カプタイダムは、耕作地の40%を奪ってしまったという。総て先住民の土地である。
しかもこのダムで作られた電力は、軍隊で使われる以外は、総てダッカに送られるという。先住民には全く無縁の電力施設なのである。
ビルマでも、少数民族のカレン州にあるサルウイン河で、同じようなことが起こっている。ビルマも軍事独裁国家である。
独裁国家でないタイでも、東北地方のウボンラチャタニのパックムーンで巨大なダムが建設された。タイの東北は、イサーンと呼ばれ貧しさの象徴である。
土地を奪われた農民や、川で漁が出来なくなった漁民達が、独自に抵抗村を作って生きる権利を主張していた。皮肉にも送電線の直下にあるその村は、電気がなく夜はろうそくの灯りで、自給自足の生活であった。
村の人々は皆、何故こんなにと言うほど、身に沁みて親切であった。私達が帰った3ヵ月後、村は焼き討ちにあった。
大きな力が、小さな力をねじ伏せる光景は、形は違えどの国にも共通である。
ランガマテイでは、私がチッタゴンに来るきっかけを作った、孤児院をやっている仏教僧のスマナランカルの友人の家に連れて行かれた。驚いたことには先住民でありながら、その家には電気が引かれ冷蔵庫まであった。さらにびっくりしたのは、ベンガル人の下働きを雇っているのであった。広大な敷地には、さまざまな果樹が植えられていた。
その家の主、スマナランカルの友人の母親は、ベンガル織りの日本で言う人間国宝なのだった。アメリカやヨーロッパにも度々出かけるのだという。彼女は、一度是非日本にも行きたいと屈託なく語った。外見はそこらにいるチャクマの女性と全く変わりはなかった。
ただ彼女には、他の誰もまねの出来ない技術があったのだ。技術さえあれば、殺されないで生き残れる。そう考えて彼女は先住民の女性達に織りの技術を伝えるプロジェクトを家の一角に設立した。土間を四角く掘って、その穴の前に手製の機織がすえてあった。土間に腰掛けて織るという形は初めて見た。自転車のリームを利用した糸つむぎは、ダージリンのチベット難民センターなどでも見た。ここでも必要なものは、総て身近かなものを利用して作っていた。
彼女の家は芸術家一家で、次女はバングラデシュでNO2の著名な画家であるという。何がNO.2なのかは分からないが、兎に角バングラデシュ政府には大事にされる画家のようであった。当時ダッカに住んでいると言っていた。
母親の織った布を売る店もあるというので連れて行ってもらった。2,3軒の店が並んでいたが、何故かどの店も皆しまっていた。
なんとなく状況が飲み込めた。チッタゴン高原から、外人を締め出して情報を統制しても、国連など海外の公的な視察を断ることは出来ない。そうした視察団が来た時には、バングラ政府の都合のいいところだけを見せるのである。中国など閉鎖された国々では、常套的に行われている。
芸術家一家は、そんな視察団が来た時バングラデシュ政府が先住民に如何に寛容であるかを見せる装置なのだと思った。
バングラデシュ政府は、芸術にも力を注いでいる。先住民の伝統を保護している。海外にそう宣伝する為には、海外にも通用する技術が必要なのである。
ここの家族は、周囲で自分と同じ民族が虐殺されたことをどう受け止めたのだろうか。そしてその中で自分達家族だけが生き延びたことを。
先住民にとっては、ここの家族はベンガル人の政府に加担した人々ということになる。
しかし、私をチッタゴンに送り込んだプロジェクトのリーダー、ブラザージャラスもそしてスマナランカルも全くこだわりを見せない。日本人の私には理解に苦しむ状況ではある。
アーテイスト一家の精一杯の歓待を受けて、ランガマテイを後にした。

アジアの人権問題番外編再びタイビルマ国境再訪

            アジアの人権問題番外編再び
             ビルマ・タイ国境再訪 
 3月15日から25日まで、私が代表を務める、STAなみだの分かちあいアジアのスタデイツアーでタイ国境の町メイ・ホー・ソンを訪れた。
チェンマイからミニバス(ワゴン車)で6時間、毎年この時期は焼畑の煙で、町がかすんでいる。煙害で、飛行機も飛ばないことがある。日中は36度を越える気候だが、午前中は太陽が煙にさえぎられて涼しい。
メイ・ホー・ソンでは、友人のビルマ少数民族パオの民主化組織PPLO(パオ民族解放機構)議長オッカーのオフィスにお世話になる。 
 理解しやすい為に、ここでビルマ問題のバックグラウンドを簡単に解説しておく。
ビルマは多民族国家である。ビルマ人の友人は、70%のビルマ人30%の少数民族と言い、少数民族の友人はビルマ人50%少数民族50%だという。
少数民族は仕分け方で50から100あるといわれる。その中の13の民族が民主化を求めてNDF(民族民主戦線)という連合体を作った。カレン・カレニ・シャン・モン・パオ・ワ等それに加盟する13の民族が少数民族の主だったものと思っていい。
1947年ビルマはイギリスから独立を果たすが、1961年の軍事クーデター以来今に至るまで軍事独裁政権が続いている。
1988年学生やお坊さんそして市民の民主化を求めるデモが、全土に広がった。軍事政権はそれを銃弾で押さえこんだ。民主化を求める学生やお坊さんの多くがタイ国境地帯に逃れた。そこで、独立以来民主化を求めて闘っていた少数民族と出会い、反軍政を掲げて大同団結した。
国際世論に抗えず、軍事政権は1990年、5人以上の集会を禁じ、主だった野党の候補者を拘束し、野党の選挙運動を禁じるという、手と足を縛り、目・口・耳をふさぐという状態で総選挙を行った。
結果はアウン・サン・スー・チー率いる野党のNLD(国民民主連合)が80%以上の支持を集めて圧勝した。それにも拘らず、軍事政権は今でも政権をNLDに移譲していない。
以上駆け足でたどった、ビルマの最近の状況である。
パオは少数民族13の内の一つだが、中でも少数派である。だがPPLOの議長のオッカーは、少数民族の連合体NDFの外交担当を勤める。
寒いアメリカで喘息が悪化したというオッカーを、チェンマイの病院に見舞った。彼は翌日退院して、中国に向かうといっていた。ビルマの軍事政権と闘う彼が、軍事政権を支援する中国に何故受け容れられるのか不思議だった。彼が言うには、中国には学生を中心に、人権問題を考えるNGOがたくさん出来ているのだそうだ。
日本にいると、中国で人権活動家が逮捕されたニュースしか伝わってこない。それは氷山の一角で、実は海中に潜った巨大な氷塊ほどの活動家がいるのだ。
チベットの騒乱もそうだが、何かもっと大きなことが起こる予感みたいなものを感じた。
メイ・ホー・ソンではNO.2の書記長ショウ・ルーが迎えてくれた。私が来ると聞きつけて駆けつけた、元パオの兵士ヤン・オンと彼とともに、その日のうちに国境に接する難民村、マカホエソン村に向かうことになった。
ヤン・オンはビルマ軍に捕らえられ7年間監獄にいた経験を持つ。彼から監獄での人権を踏みにじる、屈辱的な体験を聞いたが、途中涙で最後まで話せなかった。
親族がお金を積んで、ポーターとして働くことを条件に外に出られた。ポーターは裸足で裸でジャングルの中を銃弾など重い荷物を担いで運ぶのである。
ある日、先頭を歩いていた仲間が、目の前で地雷を踏んで亡くなった。ポーターは地雷よけでもあったのである。いつかは自分も殺されると思い、仲間と相談して銃弾の雨の中を逃亡した。ジャングルを何日も歩いて漸くタイ側に逃れた。
初めて会ったとき彼に笑顔はなかった。1年後彼の表情に笑顔を見た時、心からほっとしたことを覚えている。
動物保護団体にはとても聞かせられないが、彼は、朝獲ってきたというトラ(多分山猫の類であろう)の肉をぶら下げてきた。
メイ・ホー・ソンからマカホエソン村までは、道が舗装された今は一時間で行ける。舗装される以前は、さしも優秀な日本車も、ジャングルの坂道を登ることが出来ず、所々車を降りて後押しをした。乾季には砂埃にまみれて、全身まるで黄な粉もちのようになって五時間はかかった。
雨季には道はここかしこにクレーターが出来て、四駆にチェーンを巻いても、車は横倒しになって上った。帰ってくると全身まるでおはぎ状態であった。
マカホエソン村は、茶色の不毛の斜面に、張り付くように粗末な竹製の高床式の家が建てられている。ここの村人は、十二年前に国境のビルマ側から、ビルマ軍の攻撃を避けて逃れて住み着いた。
ここの村人と初めて出会ったのは、1991年3月人権を考える国際会議の視察団の一員として、タイ側から国境を越えて、ビルマ側カレン州の山頂にある、難民キャンプを訪れた時であった。88年の民主化運動の弾圧を逃れてきた学生の軍事キャンプと、パオの軍事キャンプに守られて、互いに助け合って暮らしていた。
近くにジャングル小学校という看板を掲げて、迷彩服の学生達がパオやカレンの子供達を教えていた。皮肉にも学生達が逃げてきて、難民の子供達は初めて教育の機会を得られたのである。
村人は、ここに来るまでビルマ軍に追われて、年に七回も村を移動した。
村長は「ここはビルマ軍にも見つけにくい場所で、とりあえず安全は確保できた。」と言っていた。その年の8月雨季の真っ只中スタデイツアーで訪れた時、まだキャンプは健在であった。雨の降りしきる中、新兵が軍事訓練を受けていた。学校は難民村の近くに移動して、かわいいお坊さん達が一緒に学んでいた。
しかし一年後そこもビルマ軍に攻略されてしまった。その後五年間、村人はジャングル地帯をさまよったのである。
 十二年前村人は国境を越えて、タイのボーダーのこの地に落ち着いた。漸く攻撃にさらされない、安全な所に落ち着いたのである。そして四年前には、何故だか知らないが村人全員にタイの市民権が与えられた。
村人の多くは森林で働く。その周辺には国王の御用林がある。
耕作地はあるが、歩いて30分国境線の近くで、耕作するにも危険が伴う。
森林の仕事はここの村人にとっては、安全が保障された上収入になるのである。
タイの人々は、森林でのきつい仕事にはつきたがらない。難民は、願ってもない労働力の供給源なのである。それが市民権の理由ではないかと思う。
市民権をもらっても少数民族はブルーカードという身分証を持たされ、移動を制限される。
それにも拘らず、最近ここの若者達は高収入を求めて、チェンマイやバンコクに出稼ぎに行くようになった。粗末な竹製の高床式の暗い部屋に、真新しいテレビやDVDが場違いな美しい映像を映し出していた。
フィリッピンやバンコクのスラムや、インドの貧しい村でもお金が入ると何を差し置いても先ず買うものはテレビなのである。
毎年村長の家にお世話になるが、私が行くと何故か直ぐ酒が出る。トラ?の肉と地酒の強い焼酎で今年も酒盛りが始まった。
 暗くなって村の少女達が踊りを披露してくれるという。案内された副村長の家の前の庭では、少女達が踊りの練習に余念がなかった。私達が行くと、皆伝統的な衣装に着替えてくると家に散って行った。待っている間、副村長は私達を部屋に通して、DVDを見せてくれた。彼らの故郷のシャン州のタウンジーの映像だった。森の都と言われるように、それは緑に囲まれた美しい町であった。
少数民族はカレン州・モン州・カチン州などそれぞれテリトリーを持っていた。しかし少数民族の中でもパオ・ラフー・パラウン・ワなど規模の小さな民族は、独自の州を持ちえず、シャン州の一部に帰属していた。そのシャン州は、民主化を求める少数民族の運動の見本市のような所である。
シャンの民主化組織のSSA(シャン州軍)はビルマ軍事政権と停戦交渉を結んだ部隊と、それにあくまで反対し民主化を求める部隊に分裂してしまった。そこに、麻薬の権益を一手に握る元中国の国民党の残党KMT のクンサーが参戦した。クンサーは私兵一万を擁する、巨大な力を持っていた。ビルマ軍を交えシャン州は三つ巴四つ巴の入り乱れた戦場になった。パオも独自の軍事組織を持っているし、ワに至っては、小粒だが戦闘では一歩も後には引かぬという過激な民族である。
そんな状況の中で、パオの村人達はとばっちりを受けたといえなくもない。
シャン州では多数のビルマ軍が展開した影響で、当然シャンの民衆も過酷な被害に遭っている。ビルマ軍はシャン州で、レイプを戦略として実行している。SWAN(シャン女性行動ネットワーク)のメンバーから「Ricense to Rape」(レイプの免許証)という衝撃的な報告集を預かった。それについてはまた機会を改めて書く。
パオ難民の村人が、タイの国境のこの不毛の地に住みついた状況は大体分かっていただけたと思う。
少女達は、パオの伝統的な黒いシンプルな衣装に着替えてきた。頭にターバンのように巻いた色とりどりのタオルが、パオ独特なのだ。
踊りは単純なステップで、手で表現をするこれまたシンプルなものであった。彼女達は、おそらくこの村か或いはビルマのジャングルで生まれて、タウンジーのことは全く知らないと思う。もの悲しいメロデイ―で恥ずかしそうに踊る彼女達を見ていると、村人の緑の街への望郷の念が、痛いほど伝わってきた。対峙する山のすそでは、漆黒の闇の中、焼畑の紅蓮の炎が美しかった。
踊りを囲む輪の中から、小柄で小太りの男が近かずいてきた。「私を覚えているか?」暫く顔を眺めていて、漸く思い出した。1991年初めて訪れた、ビルマのジャングルのパオの難民キャンプを守っていた、パオ軍の大尉であった。あの時は軍服で、腰に拳銃を携えて、厳しい顔つきで部下に命令を下していた。今の穏やかな笑顔からはあの頃の彼は想像しがたかった。
「もう武器は捨てたよ。」という彼と硬い握手を交わした。ビルマ国軍の圧倒的な武力を前に、カレン・カレニ・ワ・アラカンを除く多くの少数民族が武力闘争から政治闘争に大きく舵を切った。国の資源を切り売りして、中国などから武器を調達する国軍との軍事力の差は、歴然としていた。また、先進国のNGOが支援の条件として、非暴力を求めるという事情もあった。
少数民族の若者達は、さらに進んで運動を環境問題にシフトしつつある。環境問題は、民族も国境も越えて、同じ地平で経験を共有できる。それに平和問題を扱うNGOだけではなく、環境問題を扱うNGOの支援も得ることが出来る。国を離れて他国で活動せざるを得ない彼らにとって、活動は偏に支援に頼るしかないのである。
オッカーも一時はタイ国籍をとって、農民として暮らす等と言っていた。しかしパオ民族のことを考えれば、どんな形であれ、民主化運動を続けなければならならないと思い直したようである。またNDFの外交担当で培った世界の人脈を考えれば、他に彼に代わるべき人材は見当たらない。
踊りが終わって、村長の家に戻ると、大尉を先頭に村人がぞろぞろついて来た。
どうやら珍客が来たので、夜を通して話し合おう(飲み明かそう)という魂胆のようだ。
若者がいると民族楽器などを持ち出して、お祭り騒ぎになるのだが、今回は熟年ばかりなのでそれはないようである。村長の家は、村人の集会所もかねているのである。
旅の疲れで先に寝込んでしまった我々にお構いなく、明け方まで話し声が続いた。
 村について早々、ヤンオンが村を案内してくれた。数分歩くと舗装路は途切れていた。目の前にそびえる山をさして、「あそこが91年あなたが訪れた所です。今はビルマ軍の前線基地です。」91年8月車を降りて、雨季のジャングルを滑ったり転んだりしながら上ったことを思い出した。
翌日マカホエソンを出て帰る途中、ワの村ラクタイを訪れる計画だった。ラクタイは戦闘的なビルマ少数民族ワの集落だが、現在はタイ軍のコントロール下にある。中国式の家が立ち並び、中華レストランと高山茶を目当てにタイの観光客などが訪れる。
毎回、亡くなったワのリーダーが、奥さんのために建てたレストランで昼食を取る。その美しい奥さんの入れてくれる高山茶が、飛び切り美味しい。
今回は残念ながらそこには寄らず、ショウ・ルーはワのリーダーの家へ案内してくれた。リーダーは新しく出来たキャンプに行っていて留守で、若いイケメンの息子が応対に出てくれた。伝統的なカレンの衣装を着ていたので、「あなたはカレンなのか?」と聞いたら彼は「いいえ、シャンです。」と答えた。父親はワだが母親はシャンなのでシャンなのだそうだ。ビルマの少数民族が、母系を引くということを初めて知った。若者はルマンと名乗った。
そのキャンプはタイ軍の監視所があって、許可を取らないと入れない。かなり難しいが、決して入れないわけではない。ショウ・ルーは朝から酒びたりで、思わせぶりなことを言って、どうもはっきりしない。挙句の果てに、「キャンプに入ったら何が起こるか保障できない。もし何かあったら案内した人に迷惑をかける。」まるでマッチポンプである。私達をここまで案内しておきながら、門前で帰れというのである。
「私たちは日本からドライブに来たのではない。現場に立って人々と交流したいのだ。ルマンに案内してもらうように既に頼んだ。」「よーし分かった。あなた方で話がついているのなら私はもう口をさしはさまない。私は何度も行ったから。ここで待つ。」何のことはない、彼はただ腰を落ち着けて飲みたいだけなのであった。
ワの中国部落を横目に、車は直ぐ未舗装路に入り、タイ軍の検問所に出た。ルマンがタイ軍の兵士と二言三言言葉を交わすと、直ぐOKが出た。「彼は友達なので問題はありません。」
気が抜けるほどあっけなくキャンプに入ることが出来た。
地形が複雑に入り組んでいて、キャンプ内はビルマ領なのだ。
山の斜面を切り開いて、竹製の高床式の家がそこここで建設途上であった。今まで幾多のキャンプを訪れて、私には見慣れた光景であった。ワとパオそしてシャンの兵士達30家族が暮らしている。年老いた兵や傷病兵などの住む後方基地として、人口はまだまだ増えるという。山からの湧き水を細いビニール官で導入しているが、人口が増えるととても間に合わない。
キャンプの管理をするルマンの父親が、掘っ立て小屋のオフィスに挨拶に現れた。母親も重要なスタッフとして働いている。日本から来たと自己紹介すると、現実をしっかりと見て日本の皆さんに伝えてくださいと頼まれた。
キャンプを奥に上がっていくと正面に山が切り立っている。「あそこにワの基地があります。兵士は毎日あそこまで水を運ぶのです。」私はちょっとした上りなのにもうはーは-息が切れている。「後ろを見てください。あの山がビルマ軍の前線基地です。」振り返ってみると、山の手前にタイの国旗が見える。「あれはタイ軍の基地です。」少数民族とビルマ軍の間にタイ軍が割って入っているという構図である。「ここの坂を登りきってしまうと状況が良く見えます。」
坂の上には狭い平地があって、監視所とミーテイングルーム(作戦会議室?)が建っていた。周辺には塹壕が掘ってあり、少しはなれたがけにはトーチカがあった。「3ヶ月前にここで戦闘がありました。一人なくなり数人が負傷しました。」30人なくなった、50人亡くなったというイラクの報道の前には、それはニュースのかけらにもならない。しかし現場に立ってみると、名もない一人の横死という現実が重くのしかかってくる。
夏の日差しが照りつけ、風の音が聞き分けられるほど静かであった。銃弾の音と人の死など想像できないほど平和な時間であった。細い道から若い夫婦が現れた。農作業に行っていたようだ。こんな危険な所でも農業が営まれているのだ。日本の休耕田という言葉が頭をよぎった。
ルマンは、ミーテイングルームに掛かっていたワの軍服を、私達に誇らしげに着て見せた。
オフィスの方に下って行くと、奥にお寺が立っていた。どこのキャンプもそうであるが、村人が何を差し置いても先ず建てるのは、お寺や教会なのである。
以前軍事キャンプの学生リーダーにも、お寺の建設の支援を頼まれた。戦闘に出て何時生命を落とすかもしれない。祈る場所が要るのだという。
先ず生命を落とすかもしれないという前提の下に、生活を組み立てていくという現実。実はそれが真実かもしれないが、温泉のような現実の中で生きるわれわれ日本人にとっては、それは想像さえできない世界だと思う。
キャンプを一周してきて、ルマンの父親にインタビューをした。
このキャンプをまとめていく上で難しいのは、ワのグループが二つに割れていることである。ビルマ軍に投降したクンサーの後、麻薬の権益を握ったワのグループと、ひたすら民主化を求め、少数民族の連合体NDFに参加するグループである。
このキャンプでは、ビルマ軍という共通の敵を目の前にして、パオとシャンを含め今のところ共闘は成り立っている。ここを突破口として、ワ民族の統一をめざしている。それなくして、ビルマの民主化等は夢のまた夢である。
このキャンプは欧米のNGOの支援で成り立っている。日本の支援はまだない。(チェンマイで、少数民族の若者には、日本はビルマ軍事政権を支援していると皮肉られてしまった。)
このキャンプには教育施設が全くない。それが一番の問題だ。日本の皆さんにこのことは是非伝えて欲しい。まとめるとインタビューは大体そんな話であった。
日本の支援は、国益を先ず優先し目立つ所にしか届かないように思う。むしろ支援が必要なのは、ここのように目立たない所なのではないだろうか。それに国益を考えた支援などは、本当の支援とは言えないのではないか。支援はされる側の視点でされるべきであり、する側の損得でされるべきではない。
小さな小さなNGOなみだの分かちあいアジアの代表としては、無力感を感じながらこのキャンプを後にしたのであった。
ビルマ問題は、昨年9月お坊さんの祈りの行進(デモ行進)が銃で弾圧され、日本のジャーナリスト長井さんが殺された。そのことで日本人の関心を呼んだ。
しかし半年も経つと、中国の餃子事件、そしてチベット問題と次々起こる事件にかき消されて、ビルマはすっかり忘れ去られてしまった。日本はつくずく情報の消費期限の早い国だと思う。
今回、無抵抗のお坊さんや市民に銃を向けるビルマ軍事政権の実態が、はしなくも明らかになった。あの映像が語る現実は、何もラングーンに限ったものではない。少数民族の暮らすタイ国境地帯では、日常的な出来事なのである。ただそれが伝えられないだけのことである。
私達小さなNGOの使命は、アジアの片隅でひそかに生きる力弱き人々の、なみだと怒りを伝えることだと思う。
日本は今までビルマ軍事政権の延命に多大な貢献をしてきた。そのことに私たちは責任を感じなければならない。無関心は、暴力を容認するという意味で、加担をも意味する。
先ずは関心を持っていただけると、ありがたいと思います。このレポートがその一助になることを願って止みません。


アジアの人権問題10

            アジアの人権問題10
 バングラデシュのベンガル人イスラム教徒が、強制入植するチッタゴン丘陵地帯に、少数民族チャクマに成りすまして潜入した。
私を熱心に誘った仏教僧スマナランカルの孤児院を訪ねた。そこではベンガル人入植者に両親を殺された120人の孤児たちが生活していた。最年少は5歳の少女で、10歳の姉と警察に保護されてここにつれてこられたという。どういう体験をしたのか、聞かなくとも大体は想像できる。森へ薪を拾いに行ったまま帰らない父親。買い物に出たまま帰らない母親。総てベンガル人イスラム教徒の入植者によって虐殺されたケースである。チャクマの60万人の内20万人が犠牲になったというデーターまである。
 この孤児院は、チャクマら先住民族の人々のよりどころになっていた。中心のお寺兼集会所は、ドイツ人の宣教師の支援で建てられたという。ここでも仏教徒の生き残りを賭けたプロジェクトが、クリスチャンの手によって支えられていた。
チャクマの若い人材を育てる、カルカッタの郊外のボデイチャリヤという学園村も、フランスのパルテージというNGOの支援で建設された。フランスはやはりクリスチャンが基盤の国である。
日本の仏教徒即ちお坊さんは、この事実を全く知らない。知ったとしても積極的に動こうとはしない。普段奇麗事を並べ立ててはいるが、こういう悲しい事実に向き合おうとはしない。抹殺されかけている仏教徒の生き残りに手を差し伸べるのが、クリスチャンであるという事実を聞いても、お坊さんの反応は鈍い。
 日本人が来たというニュースを聞きつけて、主だった人々が駆けつけてきた。突然多くの人に紹介されて、殆ど記憶に残っていない。その中で、バングラデシュ軍と先住民の抵抗組織であるシャンテバヒニ(平和軍)の仲介をしている老人に紹介された。彼は泰然自若として、横で爆弾が炸裂しても微動だにしないという感じで座っていた。そのほかの人々が自分のことを語りたがったが、彼は寡黙であった。1997年チャクマのお坊さんに化けて潜入した時も、彼に会った。彼は私を見抜いていながら、お坊さんとして処遇してくれた。
突然銃を肩につるしたベンガル人の兵士が3人踏み込んできた。偽チャクマがばれたのかと一瞬緊張した。日本人とばれて、逮捕拘留か或いは即国外退去が頭をよぎった。しかしみんなは平然と談笑している。兵士の後から満面笑みをたたえた男がやってきた。彼はチャクマ民族のただ一人の国会議員であった。先住民にも選挙権も被選挙権も認められている。ただ国を左右する勢力は、人口から言っても当然ながら持ち得ない。それは先住民の代表を認めるという海外へのパーフォーマンスだと思う。国会議員は、24時間体制で兵士が身辺警護に当たるのである。旧日本軍が使っていたような旧式な銃で、警護などできそうになくただお飾りのように見えた。
1995年東インドの南トリプラ州の難民キャンプにやはり潜入した。8万にのぼる難民のリーダーは、元大統領の補佐官をしていたウペンドラ・ラル・チャクマだった。 
彼は影響力を持ちすぎて、難民として逃れざるを得なかった。でもこのことは海外のメデイアは、パキスタンのブット氏やシャリフ氏の時のようには報じなかった。バングラデシュが核を保有していたら、多分報道もありえただろうが。
ということで国会議員氏とは、友好的に会話を交わした。彼は2002年ソウルで開かれた仏教徒の会議の折、日本を訪れたスマナランカルとともに私の家に泊まっていった。
既に国会議員を辞めさせられ、一人の市民としてスマナランカルをサポートし、チャクマら先住民の人権獲得の活動をしていると語っていた。
孤児院を去る時、スマナランカルの甥だという若い僧が、「あなたをゴッドファーザーとお呼びしていいですか?」と訪ねてきた。仏教徒にゴッド(神)もおかしいが、なずけ親や里親などをさして言う。「父親は亡くなりました。母親は家を出て今どこにいるのか分かりません。」
子供達に別れに、「今ゴッドファーザーになってくれといわれました。今日から私には120人の子供が出来ました。1000Km離れた日本でいつもあなた方のことを思っている父親がいることを忘れないで下さい。」と挨拶した。あの子供たちのことは忘れたことはないが、具体的に何もしてやれていないことが悔まれてならない。
 カグラチュリから最も虐殺が酷かった、ランガマテイに向かう予定だった。私をチッタゴンに送り込むプロジェクトのチームリーダー、ブラザージャラスは、「ランガマテイは、軍人がゴマンといて危ないから、車から降りないでパスしたらどうか。」と言われた。
「危険を避けていたら、チッタゴンには入らない。また来ることが出来るかどうか分からない。真実を知りたいから来たのに、ランガマテイを避けていたら、真実を避けて通り過ぎることになる。」  
と言うことで、予定通り強行することになった。
ランガマテイは、カルカッタに亡命して、そこで先住民の子供の為のエリートを育てる学園村ボデイチャリヤを建てた仏教僧ビマル師の孤児院があったところである。
ビマル師は、2000人の孤児と暮らしていたところを、突然バングラデシュ軍に襲われて、子供達とばらばらになり、インドに逃れた。
彼の孤児院もそうだが、そこでは寺院や民家が焼き討ちに会っている。その跡にサウジアラビアなど中東のイスラムの支援でモスクが立てられている。焼き討ちの跡は今では、跡形もなくなっている。
車は山道を縫って峠を越えた。「あれがランガマテイだ。」ジャラスが指差す方に、青い水をたたえた湖と緑豊かな町が望見できた。2週間インドを旅してバングラデシュに入り、ずっと茶色い水しか見てこなかった。
まるで日本の信州に来たような錯覚に捕らわれた。こんな美しい町で数々の惨劇が繰り広げられたのである。一瞬の郷愁と同時に、ふるさとを追われた人々の悲哀が胸に沁みた。
遠くから見れば穏やかに見えるあの町が、凶器である鉄砲を携えた兵士の跋扈する所とはとても思えなかった。


アジアの人権問題9

            アジアの人権問題9
 チッタゴン丘陵地帯に潜入してもう一つ気になったのは、道行く人が殆どイスラム帽をかぶったベンガル人ばかりであることであった。ベンガル人と私達日本人と同じモンゴロイドの先住民は、顔を見ればすぐ見分けはつく。表通りを歩くチャクマなど先住民は殆ど見かけない。「これが問題なのだ。」ジャラスがぽつんと言った。
1900年宗主国イギリは、チッタゴン特別措置法を制定して、高原地帯に先住民以外の侵入を禁じた。当時高原地帯の人口は、先住民が97%を占めた。
ダッカの集会で学生のリーダーのサンチャイ・チャクマが「今高原地帯のベンガル人と先住民の人口比は、イーブンになったといわれています。いやもうベンガル人が逆転したと思います。」と言っていた。その言葉がぐっと現実味を帯びて迫ってきた。ベンガル人イスラム教徒の入植が、如何に急激に進められたかが分かる。 
表通りの商店も、殆どがベンガル人の店だった。その商店街を歩く先住民も数えられるほどしかいない。一体みんなどこに行ってしまったのだろうか?
車が町の中心を離れると、道の傍らで牛や山羊を追う先住民の人々に出会った。車は構わずそんな人々の中を走り抜けるのだった。車におびえて、慌てて端っこに逃げ惑う人々を見て、これは尋常な光景ではないと思った。
田園地帯では、伝統的な民族衣装を着た女性達が集団で田の草取りをしていた。チッタゴン丘陵地帯の経済は、ベンガル人イスラム教徒に完全に握られてしまっていた。先住民は農林牧畜業の一次産業でわずかに命をつないでいた。家族が露命をつなぐほどの狭い田畑も、ベンガル人イスラム教徒は暴力を背景に奪いとっていた。
高原地帯は熱心な仏教徒の町であった。しかし寺院を打ち壊した後に、忽然とイスラムのモスクが建てられた。中東のイスラム国家の支援で立てられたのだと聞いた。
最初の訪問地カグラチュリは、虐殺や寺院の打ちこわしが激しかった所である。訪問した日のベンガル語の新聞に、お坊さんが殺されて埋められていたという記事が載っているとショポンが教えてくれた。そんな血なまぐさい所なのである。
田園地帯を抜けた川沿いに、仏教僧スマナランカルの孤児院があった。毎年毎年執拗に招待を受けて、その熱意に負けとうとう来てしまった。
ただ私のような単なるおっさんが来てもあまり意味がない様に思った。もっと政治的にも経済的にも力を持った人が来てこそ意味がある。ま、彼はわらにもすがりたい状況だったのであろう。とりあえずわらとしての使命は果たそうと思った。
スマナランカルが数人のお坊さんや孤児たちとハグで迎えてくれた。そこでは5歳から15歳まで120人の孤児達が共同生活を送っていた。ベンガル人入植者たちに、目の前で両親を殺された孤児もいた。そんなトラウマを背負って、子供達には笑顔が見られなかった。
子供達と出会うと私はどこでも一緒に日本語の「大きなうた」を歌ってきた。インドの村で、ビルマの難民キャンプで、売春婦として売られないように少女達をかくまう北タイのシェルターでそしてアメリカの小学校で。
アメリカの小学校を除いて、子供達はみんなこの歌を歌うとハッピーになれた。どこでも何度も何度も歌うことをせがまれた。
ここの孤児たちとも歌った。始め硬い表情の孤児たちにも、ジェスチャーを交えて歌ううちに、笑顔が見られるようになった。
「ここの子供達に海外からお客さんが来るのは珍しいのです。そして一緒に歌を歌う経験などもちろん初めてのことです。子供達のこんなハッピーな顔を見たことはありません。」スマナランカルは涙を流して喜んでくれた。
資金が全くなく、食料は田畑を借りて子供達と耕している。近くのチャクマの人々が、食材を差し入れてくれたりもする。食事を作るのも、近くのチャクマのコミュニテイ―の人たちが交代で担当している。
学齢期の子供達は、外の学校に行っている。独自に学校を作りたいが、とてもそこまで手が回らない。外の学校ではベンガル語で教えている。それに危険でもある。しかし子供達にとって教育は最も重要だ。
教育が第一だというのは、1995年日本人として初めて入った、東インドのトリプラの難民キャンプで、そこのリーダーのウペンドラ・チャクマからも聞いた。
インドのカルカッタに亡命している、仏教僧ビマル師も、世界に発信できる人材を育てる為に、カルカッタ空港の西の田園地帯に、ボデイチャリヤという学園村を作った。
チャクマ民族の生き残りは、偏に教育にかかっているというのが、それぞれに共通した認識であった。
タイ国境地帯のビルマ難民キャンプでも、教育は最重要課題だった。
入植者に襲われる危険を冒してでも、外の学校に通わせるというのは苦渋の選択ではあったと思う。
3,4人で暮らす薄暗い粗末な竹製のホステルの部屋には、古びた教科書とノートが数少ない身の回り品とともに整然と置かれていた。
ボデイチャリヤの子供達は、難民とはいえ選ばれた子供達である。授業は英語で進められ、教科も文系理系多岐にわたって内容も高度である。
それに比べここの子供達の教育環境は、比べものにならないほどお粗末であった。教科はベンガル語に算数、そして社会科でベンガルの歴史などを学ぶ。日常会話はチャクマ語なのだが、それを学ぶ機会はない。それはチャクマの伝統文化を失い、子供達をベンガル文化に同化させることになる。それでもスマナランカルは、「学ぶ」ことを子供達の為に選んだのである。バングラデシュがパキスタンから独立したのは、ウルドー語の強制に抵抗したことに始まる。私達日本人には実感が伴わないが、言語は命をかけてでも守るべきものなのである。
チャクマ語の挨拶は合掌して「ジュ―」という。その響きはネガテイブで、まるで消え入りそうに聞こえる。チャクマの現状を象徴しているように。