ビルマ

S.T.A.では、ビルマの民主化運動と少数民族の自立支援、バングラデシュチッタゴンの少数民族の支援、タイの売春と闘う女性支援、インド不可触民の支援を中心に活動してます。このコーナーでは、各国の現状とS.T.A.のプロジェクトを紹介しています。

タイ国境地帯のビルマ少数民族

1988年学生を中心に全国で盛り上がった民主化運動は、ソウ・マウン将軍の力による弾圧で壊滅的打撃を受けた。自由を求める学生達は、タイ国境地帯に逃れた。

其処では、ビルマ独立以来分離独立を求めて戦う、カレン、カレニ、シャン、モン、カチン、パオなどの少数民族がいた。学生達は少数民族に軍事訓練を受け、ジャングルでの生活を学び、代わりに子供達の教育、医療サービスを行った。当時国境地帯の学生は8000人を数えた。

’92年海外の批判を受けて、力一辺倒のソウ・マウンは更迭され、タン・シェをトップに、戦略に長けたキン・ニョンが実権を握った。キンニョンは、軟硬取り混ぜた分断政策で、少数民族を切り崩していった。彼は少数民族と民主化運動の連合体DAB(ビルマ民主連合)や少数民族の連合体NDF(民族民主戦線)とは一切停戦交渉のテーブルにはつかず、先ずカチンなどの大きな組織と個別に交渉を結んでいった。少数民族は互いに疑心暗鬼に陥り、連合体としての求心力を失っていった。

またDABの拠点であるマナプロウを攻撃するのには、DKBO(カレン民主仏教徒機構)というダミーを使って攻略した。DKBOは言うまでもなくビルマ人の軍によって組織された傀儡である。そうしたプロセスを経て、国境地帯の民主化運動は、一気に力を失って行った。

カレン、カレニなどの強硬派を除いて多くの少数民族や民主化グループは武力闘争を放棄して、政治闘争に軸足を移していった。国境の不安定要因だった麻薬のボス、クンサーもビルマ軍に投降して、軍事政権はタイ国境のビルマ側を略コントロールしてしまった。

歴史的に対立してきたタイも、経済界からタクシン首相が出て、ビルマ軍事政権と経済的に深いつながりを持つようになった。それは国境地帯の民主化運動そして抑圧を逃れてきた難民には極めて厳しい状況を招来した。

今まで運動を黙認してきたタイ政府は、厳しく取り締まるようになった。難民の多くは強制的に危険なビルマ側に追い返され、難民村は集中キャンプに統合され外からの支援も厳しく取り締まられている。

そうした厳しい状況の中で少数民族の青年達が、NUF(民族青年フォーラム)という組織をつくり、民主化成立後も視野に活動を始めた。そのメンバーのなかにはHREIB(ビルマ人権教育研修所)という組織で活動する若者もいて、ビルマの民主化に新しい希望が見えてきたと感じるこの頃です。

▼スタディツアーで少数民族の青年たちと語りあう

ビルマの民主化運動

ビルマは人種的にも、文化の面でも、日本に非常に近いように感じます。ビルマを訪れると、人々の優しさ、静かな物腰に、なにかほっとしたものを感じます。太平洋戦争末期、日本軍はインドの独立を目指す、チャンドラ・ボースの軍隊と合流する目的で、ビルマに侵攻しました。白骨街道と悪名高き、インパール作戦です。表向きは、独立を支援するということで、日本軍はビルマの物的人的資源を利用しました。後にビルマを独立に導く、アウン・サン将軍を始め、戦後のビルマの指導者の多くは、日本軍によって育てられました。しかし、日本軍の残した傷跡は、ビルマ国軍を始め、今でもその影響力を残しています。

1965年軍事クーデターで実権を握った、ネ・ウィン軍事独裁政権は、ビルマ式社会主義という政策を掲げました。それは、イデオロギーも具体的政策もない、総てが軍人による、国家統制体制でした。政治、経済的に全く素人の軍人による統治によって、1950年代アジアの優等生として米の輸出で潤っていた経済は、1980年代には国連の認定する世界最貧国の一つに数えられるようになってしまいました。然し、ネ・ウィン個人は、世界の長者番付の十指に入るといわれています。彼も戦争中に日本の軍部(中野機関)に育てられた一人です。

1988年学生を中心に、お坊さん、一般市民も加わって、民主化を求めるデモが、自然発生的に全土に広がりました。ネ・ウィンは国際世論の圧力もあって、表舞台からは姿を消しました。然し彼の院政は続いていました。彼の後ろ盾で実権を握ったソウ・マウン将軍は丸腰のデモ隊めがけて、機銃を掃射しました。白いカッターシャツを朱に染めて倒れる学生。その友人を助けようと駆け寄り倒れる学生の姿が、ブラウン管を通して流れ、世界に衝撃を与えました。銃弾に倒れた民衆は、8000人にも及ぶといわれています。民主化を求める学生、お坊さん等多くの人々が、タイ国境のジャングル地帯に逃れました。

国境地帯では、カレン・カチン・シャン・モン・パオ等の少数民族が、40年以上も自立を求めてたたかっていました。ビルマの民主化運動と、少数民族の民主化の闘いがそこで連帯の絆を結ぶことになりました。学生が来たおかげで、今まで教育や医療の機会のなかった少数民族の人々も、最低限のサービスを受けられるようになりました。

1991年五人以上の集会を禁止し、有力な候補者を拘束し、選挙運動を禁止したなかで行われた総選挙で、アウン・サン・スー・チー率いるNLDは、80%以上の得票を得て、地すべり的勝利を収めました。軍事政権は当然政権を移譲するべきですが、世界の批判を浴びながら、いまだに居座っています。スー・チーさんがノーベル平和賞を受賞したにもかかわらず、軍事政権はそれも無視しています。

日本政府は、‘88年国連が非難決議を可決し、世界が経済制裁をした時、表向きは同調していました。然し、‘98年私がビルマを訪れたとき、‘89年ダム建設に携わっている日本企業の社員の運転手をしていたという人に出会いました。休みの日は相手をする女性を探すのが大変だったと語っていました。

戦争中からの人的関係、そして企業の思惑もあってか、日本はビルマ軍事政権の延命に、陰に陽に力を貸しています。‘02年スー・チーさんが自宅軟禁から解かれると、日本政府は待ってましたとばかり、ビルマの債務を帳消しにしてしまいました。

日本の民衆のビルマの民主化運動に対する支援も何故か冷めています。スー・チーさんに対する支援ももっとあっていいと思うのですが、意外に盛り上がりませんい。ビルマの人々の日本に対するあこがれ、スー・チーさんの日本に対する期待は我々が思っている以上に強いのです。

日本の人々がもっと積極的に動いたら、ビルマは変わると思います。