S.T.A.通信

りゅう・チャクマ(S.T.A.代表)が月一回独自の情報・エッセイetc.を掲載するコーナーです。メールでもお届けしています。ご希望の方は、お問い合わせからご連絡ください。

STA通信130民ということ

                            2010年2月
         
 中国の「08憲章」の起草者の、劉暁波さんに対して昨年末
懲役11年の実刑判決が出た。
一党独裁を批判し、信教と言論の自由を求めると言う、当
り前のことを主張しただけなのだが。
中国政府に言わせれば、国内問題だということであろうが、
人権には国境はないというのは普遍的な理念である。
いかなる体制であろうとも、基本的人権は保障されなけれ
ばならない。
何故か中国におけるこうした人権抑圧に対しては、国際
的な批判の声が小さいと感じるのは、私だけだろうか。
対岸の火事と無視することは、自らの人権意識を貶めるこ
とにもなる。
共産党政権と言う体制を守るため、主権者たる民の自由を
封じるのは主客転倒もはなはだしい。
 映画「華氏911」でブッシュ政権を痛烈に批判した、マイ
ケル・ムーア監督は、資本主義と民主主義は正反対だと語
っている。主権者の民が、民衆として一からげにされて、
一人一人が見失われ時、そうなるのだと思う。
中国も、民を人民として一からげにし、主権者の個として
の人を見失い抑圧した時、社会主義の理念を失った。
イデオロギーではもう世界は救えない。
    

3月17日から27日までチェンマイを拠点に、ビルマ少数民族の、民主化運動を闘う人々や、買春と闘う女性達と交流してきます。

 

                       

STA通信129 ここでも政権交代

           2010年1月
           あけましておめでとうございます。 
 暗いニュースが多い中で、毎年1月は明るいニュース
をと思っている。
 バングラデシュのチッタゴン丘陵地帯では、50年以上
にわたって、ベンガル人イスラム教徒による、強制入植
が続いた。それはチャクマなど先住民の、虐殺、レイプ
焼討ち等あらゆる暴力を伴った。1986年単身潜入したが、
そこは軍事要塞と化していた。
 1997年11月バングラ政府と、抵抗組織シャンテイバヒ
ニとの停戦交渉が成立した。然し、衣食住や、安全の保障
という約束は全く履行されなかった。
 一昨年の総選挙で、先住民の代表も入る、アワミリーグ
が、政権に着き流れが変わりました。駐留軍の一部の撤退も始まったようです。
昨年8月にボデイチャリヤを訪れた時、インドに亡命しているビマル師は、チッタゴンのランガマテイに100歳の母親を訪ねると出かけて行きました。暗殺リストのNO.1にあげられていた過去もあって、心配しましたが、無事に帰ってきてお土産までもらいました。12月24日ずけの朝日新聞にも4段抜きで、「紛争地に和平の兆し」という記事が載っていました。和平が恒久的に続いて、難民としてインドで学ぶ若者達が、故郷に帰られることを願って止みません。

 

                       

STA通信128日本とアメリカ本当に対等?

                          2009年12月
 普天間基地の問題で、辺野古への移設のアメリカとの合意案に難色を示す日本に、アメリカとの合意を取るか、社民党との連立を取るかという二者択一を迫る声が聞こえてくる。
チェンジがキーワードのオバマ政権も、前ブッシュ政権と変わらないなと思う。
問題は合意か連立かということではない。沖縄に未だ負担を強いるのかどうかと言う問題なのだ。そしてそれは日本の新しい政権が、国民にどう向き合うかという問題である。
沖縄の人々は、薩摩の武力による併合以来、歴史の中で翻弄されてきた。基地問題は、人権問題である。
アメリカは、前政権との辺野古への合意案がベストだと言う。それはアメリカにとってのベストなのであって、日本にとってのベストではない。アメリカの高官がみんなベストだと、口調を一本調子にそろえるのは、日本にとってはプレッシャーになる。
知日派と言われるグリーン氏やアーミテイージ氏等も、都内でシンポジュームを開いて、辺野古への移設の履行を唱えた。イラク戦争で、旗を示せとか、ブーツでグラウンドに立てと、日本に迫った人々である。
知日派と言うのは、日本の立場を理解している人という解釈なのだが、決して日本の立場に立つ人たちではない。そこを間違えてはいけない。このシンポジュームも、日本に圧力をかける意図がまる見えである。
 日本の政権が、国民である沖縄の人々の立場で考えるのは当然のことである。アメリカが、自国の国益を考えるのと同じように。
アメリカは、基地を通して日本を守ってやっているのだと言う。然し、アメリカが守っているのは、アメリカであって、決して日本ではない。地勢的に考えれば、日本はアメリカ本土にとって潜在的脅威になる、ロシアや中国そして北朝鮮の盾にあたるのである。日本は不沈空母だと言った総理大臣がいた。空母は本土を守るための前線基地である。その守るべき本土は、日本のことではないことは確かである。     
沖縄から、ヴェナムへ、アフガニスタンへそしてイラクへとアメリカの戦闘機が飛び立っていった。それは日本を守るためではなく、アメリカの都合だったのではないか。
お金をかけずに、アメリカの税金で日本を守ってやっていると言う、安保只乗り論というのがある。
だが日本では、思いやり予算と言うわけの分からない国税が、アメリカ軍の家族の光熱費から、ゴルフ代まで30年以上にわたって払われているのである。ただ乗りと言われても戸惑う。
メデイアの報道も、「あーあ、アメリカを怒らしちゃった、どうする。」というものばかり。
日本の世論も、傍観を決め込んでいるようだ。アメリカの顔色を伺わず、沖縄の立場に立った負担軽減策の声を、もっと高めていかなければならない。

STA通信127 犠牲

           2009年11月
                   犠牲  
ご支援を送っていただいた方の手紙に、「私たちの今の生生活は、多くの犠牲の上に成り立っているのだから、何かせんとあかんのですよね。」とあった。
数年前、タイのチェンライのアカ族の山の村に滞在した。朝になると、各家から収穫したヤングコーンが、集荷場に集まった。日本に輸出されるのだと聞いた。車をチャーターしてたどり着いた、人里離れたこんな山奥からと驚いた。日本のチェックは厳しく、数センチの大きさでも規格外でとって貰えない。
 アカの人々は、もともと自給自足で、不自由のない生活を送っていた。誰が持ち込んだのか、いつの間にか市場経済に組み込まれてしまったのだ。
 私達の嗜好品のコーヒー、チョコレート、ピーナッツなどは、アフリカの人々の食料を育てる土地を奪って育てられている。80年代アフリカが飢餓に陥った時でも、こうした産物は輸出されていた。
 戦没者の追悼式典で、「尊い犠牲があって、今の繁栄があります。」と言う言葉をよく聞く。今の状況を繁栄と無批判に言うのも気にかかるが、その為には、犠牲が必要だと聞こえるその言葉に、何時も背筋が寒くなる。
確かに、犠牲なくしては、私達は生きていけないのだが・・・。

                  

STA通信126経世済民

           2009年10月
 インドのダージリンのチベット難民自助センターで、今
年もテムジン・ジャンパーさんにお会いした。
気品ある静かな口調で、何時もチベットの独立を熱く語ら
れる。もう70代半ばになられると思う。
アメリカや日本そしてヨーロッパなど経済的発展を遂げた
国も,何時かは限界に行き着く。そこで必要とされるのは、
宗教に根ざした国だ。
 有史以前の人間は、経済など関係なく生きていた。動物
も他の生き物も、経済などなくても生きている。
今はみんな本当に大切なものを見失っている。彼の言葉は、
示唆に富む。
確かに今は、経済的力が世界を動かしている。経済力と
政治力は不即不離で、それをコントロールするものが欠
けている。経済的メリットの前には、人権も無視されがち
である。
人権意識を欠いた経済力は、済民即ち、人を救うことは出
きない。人権意識を欠いた経済力はむしろ凶器となって、
弱い立場の人を淘汰していく。
経済的力をつける前に、先ずはそれを使いこなす意識の開
発が必要だ。届かないかもしれないが、テムジンさんと共
に小さな声でも発信していこう。


                       

STA通信125自立に向けて

           2009年9月
 1989年インドブッダガヤの、不可触民の村ミアビハに学
校を創った。
初めは、村人が全員で学校の運営に当たっていた。時が経
つに従って、村長が運営を独占するようになった。不透明
な経理に不信感が高まり、村は分断されていった。
 今年村人全体の集会を開くよう頼んだ。2回開かれた集
会は、村長が働きかけた時は30人足らずだったが、若者が
働きかけたら、100人を超す村人が集まった。その内の20
%は女性だった。
村長の前では皆口が重かったが、私の求めに応じて、若者
から発言があった。
「一軒に月20ルピー(今のレートで約40円)ずつ出し合
って、学校の運営に当てよう。」と言うのである。
早速目の前でノートに趣意書が書かれ、署名が回り出した。
私は学校の運営を、村長から若者達に移すよう頼んだ。
村長の抵抗は激しかったが、若者たちが話し合って独自に
運営委員会を作った。最初に発言したのは、この学校の
卒業生であった。
学校を創る時、最も心配したのは、支援することで、村人
に依存体質を植えつけることだった。だから、毎年自立を
語ってきた。50年100年単位で考えていたが、20年でそ
れを成し遂げた。未だ予断は許さないが。